2022/06/02

Netflixで『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2の三話まで観た。いい感じの滑り出し。とくに、一回まるまるアクションのみに特化した二話がすごかった。普通の場面では、3DCGのキャラクターへの違和感はどうしてもあるのだけど、3DCGでなければできないアクションを気合を入れてつくっている感じ。これを手書きの絵で表現するのはほぼ不可能だろうし、生身の俳優と実景+CGでやろうとするととんでもなくお金がかかるだろう。というか、ポストヒューマンの非人間的な動きを、生身の俳優で再現するのは、ハリウッドで大きな予算をかけても現状では不可能かもしれない。3DCGだからこそできるアクションを追及しているのがいいと思った。

江崎プリンというキャラは、アニメなどではよくいる天然天才少女なのだが、こういうキャラはこれまでの攻殻の世界にはいなかった。これまでの攻殻だったら、ここは普通に若い女性研究者として出てくるはずのキャラだろう。最初はそこに違和感があり、ウケを狙って日和ったのかと思った。攻殻のかわいいキャラは、タチコマがいれば十分なのに、むしろキャラが被ってうるさい感じになるのに、と思っていた。しかしここにきて、江崎のキャラが、リアルな女性研究者ではなく、アニメ的な美少女である(物語上の)必然性が少しみえてきた感じがある。リアルな研究者だと、ちょっとエグくシリアスになり過ぎてしまうかもしれない。

(クサナギのキャラ造形は、目がくりっとして大きく、頬がぷっくりとしていて、「人形的な顔」なのだが、もっとクールな感じの方がいいように思う。あと、アラマキの髪型は、もうちょっとなんとかならなかったのかと思う。)

人類の幸福のためにつくられたAIが暴走するという「AI」の位置づけは、『地球外少年少女』とも共通する(攻殻では、アメリカの思惑が強く働いているとか、リアルな政治的状況への目配せがあるという違いはあるが)。「Ghost in the Shell」の時代には、ネットのなかでプログラムに自然発生的に「意識」が生まれるというのが重要なアイデアだったのだが、もはやAIに意識や意思があるのは当然という感じになっている。

アメリカ人で、起業家出身の金髪の首相が、日本をアメリカ支配から脱却させようとしている存在だというのが(外圧の内面化)、神山版攻殻っぽいアイロニーで面白い。

(当然のように使用され、当然のように理解するのだが、「枝がつく」といったような用語はかなり特殊なもので、それを自然に受け入れて理解するようになったのは、いつくらいからだったのだか、もう思い出せない。最初は尖った先鋭的な作品として登場したものが、いまやすっかり定番シリーズになっている。それでもまだ尖ったところがありつづけるのは、押井的先鋭性よりも、神山的なアイロニーによるところが大きいのかもしれない。アイデアの量や質という点では、冲方版の方が優れているかもしれないが、社会へのアイロニカルな視線という点で、神山版の尖った感じに、ああ攻殻だ、という感じをより感じる。)

2022/06/01

●「ブロッコリー・レボリューション」(岡田利規)がとても素晴らしかったので、「新潮」の2015年6月号を引っ張り出してきて「スティッキーなムード」を読んだ。まさに文字通りにスティッキーな小説だった。

岡田利規は唯一無二の作家だと思うが、にもかかわらず(というか、だからこそ、かもしれないが)、ほかの誰とでも交換可能な誰かであるような人物に憑依して、ほかの誰とでも交換可能な人にとっての「唯一の生」の感触を書く。ほかの誰とでも交換可能な人の生とは、決して紋切り型の生ではなく、「紋切り型の物語」に至ることのない、その手前で留まる生のありようであり、それは「紋切り型にすら至ることができない」ということであると同時に、紋切り型に至らないことで得られる、ひたすら灰色でダウナーな具体性をもつ。紋切り型にすら至らない、何一つ際立ったところのない無名性のなかで生まれる具体的手触り。そこでは、卑劣さや惨めさでさえ、根深くドロドロしたものではなく、どうしても落ちないがちょっとした染み程度の汚れでしかなく、しかしその「ちょっと」によって決定的に清潔感が損なわれてしまうというようなものとしてある。

●「一」から「五」までの五つの章で構成されるこの小説のほとんどの場面で雨が降っており、空気は湿っている。しかし唯一「ニ」だけが、じめじめ湿るのではなく、あからさまに水浸しになる。他の場面では、いわば空気の湿り気を畳がじわじわと吸い込むという感じなのに対して、「ニ」では、白い木の床板が水浸しになる。水浸しとじめじめとは違う。主人公「さくら」は、「ニ」で園田という男のために酷い目にあうのだが、それはつまり、まともな日常や二人の関係を根底から破壊する「酷い水浸し」にされるということで、何かを切断する特別な出来事だ。だが、それ以外の章では、破壊も構築もなく、進捗も衰退もなく、ただ外では雨が降り続き、部屋のなかに湿気が溜まっていく。「さくら」は、傘をさしても意味がないくらいの土砂降りのなかでアパートの部屋にいて、《もっとすごいことになればいい》と思い、《そしたらさすがにわたしだって起き上がるだろう》と思うが、もっとすごいことは起こらない。だから「さくら」は、自分を酷い目にあわせた園田との最後の夜を、《自分はいまあの明け方の出来事を懐かしく思いかえしている気がする》と感じてしまうし、《懐かしがっているのだとしたら、そんなの嫌だった》と考える。

●「さくら」は、「もっとすごいこと」になったら、ショッピングモールに行くのだと考える。この小説で圧巻なのは、なんといっても「さくら」がショッピングモールに出かける「一」だろう。誰とでも替わりがきくような誰かが「ショッピングモール」という場所に惹かれるというのは、割とありがちな、それこそ紋切り型の思考(取り合わせ)であるようにも思われる。しかし、誰とでも替わりがきくような誰かと、どこにでもあるショッピングモールとの、抜き差しならない関係の具体性が書かれている。「さくら」はショッピングモールでなにもしない。《なにかすることがあるなら、それをするためにどこかに行っているのだから》。ショッピングモールはそのような場所としてある。

「さくら」はある日、どこのショッピングモールにもあるような吹き抜けを、最上階(五階)からフェンスに体重をかけるようにして見下ろしている女を見る。

《さくらは、彼女は自分の分身みたいだとおもった。だって、吹きぬけが引きつける危険なかんじに抵抗するのがたいへんそうにみえるから。ときどき、抵抗するのをやめてしまうと決意しかけているときがあるみたくもみえるから。さくらにも、吹きぬけの向こう側が無重力になっていることをおもい描いているときが、よくあった。吹きぬけのほうへ身をよせると、ふわっ、とめまい寸前にまで、ひきつけられる。あのときさくらが最上階のフェンスに寄りかかる女のことをみていたのも、いまと同じ午前中のことだった。最上階の五階は、食堂ばかり並んでいるフロアーだから、そんな時間帯にあいている店なんてないから、誰も行き交っていなかった。いるのはその女だけだった。》

常に雨が降り続け、ひたすら灰色で湿っていてダウナーのこの小説で、おそらくここが、主人公の「さくら」が最も解放され、幸福である場面ではないかと思う。

●また、ショッピングモールという空間の質感が、特異な描写でとらえられている。たとえば、エスカレーター。

《それで、下りエスカレーターにのった。細かい溝のたくさんついた、黒い合金の踏板のうえにのっかると、硬質な金属の感触が靴底ごしに足のうらでかんじられた。さくらは自分のあしもとをぼんやりみていた。踏板の金属のつやをほとんどもたない黒色と、溝にできる影の黒色とがたがいちがいになっているのをながめていたら、四階についた。》

人があまり注目しないような細かいところを見ているのだし、身体の微小な感覚をひろってもいるのだが、そこに熱や意欲や生き生き(きらきら)した感じはなく、あるいは物質感の突出のような感じでもなく、低体温で、しかしそれでも、細部に目が行く程度に外界への注目を促す刺激はある(ただ、注目する場所が無機的である)、という絶妙の温度感だと思う。

●内省の形に独自なものがある。たとえば、友人の千紘がモーションキャプチャーのモデルをやるというので、「さくら」がその付き添いとしてどこかの大学のスタジオを車に乗って訪れる場面。

《キャンパスのどの建物もみおぼえがあるようにおもえた。奇抜な多面体、といったかたちをしている棟もあるけれど、けっきょくのところ殺風景だった。そのかんじが、さくらがかよっていた大学のキャンパスといっしょだった。さくらは、まるで過去を車ごしにながめているような気がしてきた。なつかしさみたいなものがやってきそうだったけれど、そういうのは気が滅入っていやだから、未然にふせいだ。》

それと、クローズアップにクローズアップ感がない、不思議なスケールの失調みたいな感覚がある。

《千紘の鼻の穴から息がでて、口のうえをかすかにすべっていった。》

●この小説は、基本的には「さくら」の視点から書かれているが、「ニ」の途中から急に(なんの「段取り」もなく)、視点が「園田」に移る。「さくら」視点に統一してきれいな形式にすることは難しくないが、ここではあえて暴力的に他人の視点が割って入ってくる。この感じが「ブロッコリー・レボリューション」に近い感覚であるように思った。

●「新潮」のこの号に、三島賞候補作が発表されていて、岡田利規の『現在地』が挙がっている。そういえば、この時期は岡田利規から関心が離れていたので、『現在地』は読んでいないのだ、と気づいた。

2022/05/31

●アマゾンで、伝説のホラー映画『シェラ・デ・コブレの幽霊』を観た。

最初の30分くらいはすごくおもしろかった。「え、これってどういうこと?」「なんで?」と「?」がたくさん発生するような、とてもぶっ飛ばした変則的な感じの展開でわくわくするのだが、しかしその「?」が、本当にきれいに、演出上の工夫で違和感をつくっているのかと思っていたところまで含めて、すべてに説明がついてしまう。

(唯一説明がないのは、幽霊ハンターの男が海岸で女性をナンパする場面だ。そもそも、なぜこの場面が必要なのかが分からないし、他の場面では一貫して渋い表情をしているこの男が、この場面だけ過剰なほどの笑顔---本当に不自然に笑っている---を見せているのもよく分からない。他の部分があまりにきれいに説明がつくので、この場面の異様さがかえって際立ってしまう。)

いや、説明がつくことそれ自体が悪いというのではないが、ええっ、そんなことあるの、というような意外な説明ではなく、すごく普通の、常識的な説明に落ち着いてしまうので、あんなにわくわくしたのに、結局はそんなことだったの、と思ってしまう。途中はとてもおもしろいのに、着地点の図柄がおもしろくない。魅力的な細部がいっぱいあるのに、それにつまらない説明がついてしまって、途中までおもしろかったことを最後には忘れてしまうよ、と思ってしまった。

(だいたい、自分を殺した人物を「警察に突き出す」ように要求する、とか、そんな遵法精神にあふれた常識的な幽霊がいるのか、そんな人は幽霊にならないのではないか、と思ってしまった。)

幽霊ハンターの家の家政婦(幽霊を信じない、合理的な人物)のキャラというか、仕草の一つ一つがとてもよかった。

2022/05/30

●本を整理していたら古い雑誌が出てきて回顧モードになる(保存状態がとても悪い)。

広告批評」41号。特集、糸井重里全仕事。1982年9月1日発行。表紙のデザインは横尾忠則。中学生の時に買った。「一行、一千万円」とか言われていた時代。

 

中央公論社の文芸誌、「海」の最終号。1984年5月号。このときは高校生だ。目次をみるとすごいラインナップ。

 

「GS ゴダールスペシャル」。1985年3月15日発行。目次に樫村さんの名前がある。

 

(追加)雑誌ではないが、高橋源一郎のスナップと、瀬戸内晴美吉本隆明のコメント付きの、『さようなら、ギャングたち』。1982年10月発行(装幀、曲山賢治、撮影、斎藤和欣)。ソフトカバーで光沢のある銀色。当時、この装幀(本の厚みや紙質、ページのなかの字の詰まり方まで含めて)がとても新しく、かっこよく感じられた。そこまで含めて『さようなら、ギャングたち』という小説の経験があった。








 

2022/05/29

●今月は知らないうちにタイムリープしていたらしい。なぜか8日が二回ある…。

京急に乗って弘明寺へ。Goozenで、「井上実×白田直紀展 ときのげ--時間の外-- 」を観た。

●白田直紀の作品ははじめて観たのだが、テクスチャーが不思議で、どうやったらこんな風になるのか全然分からなかった。とても美しい、半透明のインクのような色彩で、そしてそれはとても細くて短いストロークの集積として画面に定着している。その細くて短い一本一本の線が、なんというのか、紙に対してカマボコみたいな感じで盛り上がっているように見える。だから、とても細かい一本一本のストロークが、それぞれ自律的に自分の存在を強く主張しているように見える。半透明の色彩がとても透明に響き合っていて美しいのだが、さらに、(とても細かいところで)一本一本の線における、インクの物質感の主張も強く出ている。逆から言えば、手数が多くてがちゃがちゃしているのだが、そのガチャガチャが、全体としてきれいな響きになっている。そしてインクがキラキラ光っているように見える。

(この感じは、写真や印刷物では再現できないと思う。)

魅了されて、しばらく画面から数センチくらいの至近距離で観ていた。

ピグメントインクのような本来さらっさとした色材を、なんらかの方法で粘性を高めて、それをとても細い筆を用いて紙にのせているのだろうか。いや、でも、紙をガリガリ引っ掻いているような感じがあるから、堅いペン先のようなものを用いているのだろうか。よく分からないのでギャラリーの人に聞いてみたら、文房具屋で普通に売っている色のついたボールペンで描いているのだというので驚いた。ボールペンのインクがこんなに美しいのか、ということと、ボールペンのインクが、こんなにねとっと盛り上がる感じで紙に定着するのか、ということに驚くのだが、おそらく、ペン先にかける力の具合だとか、ペン先を動かす速度とかに独自のものがあるのではないか。

●井上実の作品を観ていつも感じるのは、キャンバスの地の白の重要性だ。とはいっても、油絵では通常は絵の具で層構造をつくるのに対し、井上実の作品の層構造の希薄さ(キャンバス地も含めてもせいぜい三、四層で、タッチとタッチの間に空隙として露出する地の白が画面全体に散らばっている)は特異だと言えるが、水彩画や紙に鉛筆やペンでハッチングを用いてデッサンすることなどを考えれば、地の白が重要だというのは得に変わったことではない。ハッチングを重ねてデッサンする時、線と線との間からチラチラ見える(空隙としての)紙の白を意識しないわけにはいかない。しかし、ハッチングを用いて描かれる、地の白を生かした軽やか目のデッサンにおける地の白の意味と、井上実の作品における地の白に意味は異なっているように思われる。

ハッチングによって描かれる地の白を生かしたデッサンにおいて、地の白は空間を孕んでいる。この場合、空間とは通常の三次元空間のことだ。つまり、地の白もまた、三次元空間の秩序の内にある(ように見えるよう調整される)。しかし、井上実の作品における地の白は、三次元空間の秩序に属していないように見える。それは、空間の中に空いた非空間的な穴であるようだ。空間の秩序の内にあるのではなく、空間の背後にあって、空間を支えている非空間としての白。そんなものは普通は見えるはずがないのだが、それが露呈されてしまっているというような感じ。

(輪郭線が、三次元空間の秩序のなかにないのと同様に、井上実の作品の地の白もまた、空間の秩序の内にはないように見える。)

たとえば、イメージの背後にあって、イメージを支える非イメージというのは、イメージが「そこ」に描かれる支持体(基底材)であるキャンバスの表面のことだ。我々は、「そこ」にキャンバスがあることを知っているし、見えてもいるが、それはイメージの秩序の外にある。描かれたイメージの諸関係のなかにキャンバスの表面は含まれない。つまり、キャンバスの表面が実際に露呈していたとしても、イメージ空間のイリュージョンの秩序の内にある限り「キャンバスの表面」ではなく、イリュージョン空間を成り立たせている要素の一つである何かだ(色彩や調子やタッチやマチエールなどと同等の何かで、それは絵の具そのものやキャンバスそのものではない)。

だが、かといって、井上実の作品が、イメージの秩序のなかに、イメージの亀裂として基底材そのものを露呈させようとしていると言いたいのではない。そんな単純なことではない。イリュージョンと、それを支える物質的基盤という話ではなく、空間と、それを背後から支える非(超?)空間という話なのだ。虚と実という問題では無く、図と地というゲシュタルトの問題なのだと思われる。

星形が描かれたキャンバスがある時、通常、星の形が図で、それを成り立たせている四角いキャンバスのひろがりが地だが、キャンバスを一枚の絵として見る時、その絵が図だとすれば、それがかかっている壁、あるいは美術館の空間が地となる。同様に、通常は地である「空間そのもの」を図として成り立たせているような、それよりさらに背後にある何か。それがあるからこそ、空間を空間として把握出来る、一つ奥に後退した場。そこから空間が湧出してくるような原-空間と言った方がいいのか。あたかもそのようなものが現われているかのようなイリュージョンとして(作品=イリュージョンの話で、モノそのものという話ではない)、井上実の絵の地の白があるように見える。

 

2022/05/28

●フィクションというもののありようを、その反復回数(複数性)から考えることができるのではないか(思いつきのメモ)。

まず、フィクションと現実の違いとして、フィクションは反復可能であり、現実は反復不可能である、と考える。つまり、フィクションとは再帰的なものだ、と。例えば、昨日、Aさんがした失敗を、面白おかしく、Aさんの身振りを模倣しながら、Bさんが友人たちに話す、というとき、Aさんが昨日した失敗=現実を、Bさんが、今ここで再帰的に再現している。つまりフィクションだが、これは、Aさんの昨日の失敗を、Bさんが今ここの現実の身体を用いて再現している。今ここのBさんは、Bさん自身の唯一の現実のなかで、「昨日Aさんに起こった出来事」をフィクションとして再帰的に立ち上げている。唯一の現実から半歩浮いたところに別の層が生じている。このフィクションは、現実的な友人関係のありようによって、「Aさんのキャラを表現する面白エピソード」でもあり得るし、「BさんによるAさんディス」にもなり得る。これは現実のなかに深く畳み込まれたフィクションだ。

もう少し虚構性を高くすると、同じ戯曲が複数回上演されるということが考えられる。「Aさんの失敗をBさんが語る」ことに比べれば、フレームが少し硬くなり、反復可能性が高くなったと言える。とはいえ、上演の場合、その再現はその都度一回限りでもある。ここで、その戯曲が世界的に古典と言われるようなものなのか、それともマイナーな劇団の定期公演のために書かれたものなのかで、反復可能性の頻度(フレームの硬さ)が違ってくる。また、フィクションとしての反復可能性を、戯曲を単位にみるか、それを演じる俳優を単位にみるかで違ってくる。俳優Cは、現実としての自分自身の唯一の身体を用いて、「この役」を何度も反復して演じる。あるいは、俳優Cは、現実としての唯一の人生のなかで、現実の身体を用いて、様々な異なる役を演じる。後者もまた、現実の唯一性に対する、フィクションの複数性として、反復可能性の一つと考えられる。

ここで、物語としてのフィクションとはやや異なる、ゲームとしてのフィクションを考えてみる。一人の俳優が、その生涯のなかでたくさんの役を演じる。または、一人の作家が、その生涯のなかでたくさんの物語(作品)をつくる。しかし、いかに多忙な俳優や、多作な作家だとしても、一人の棋士が生涯のなかで行う対局数や、一人のプロスポーツ選手が生涯に行う試合数と比べれば、かなり少ないということになるのではないか。

現実は唯一のものであり、その状況は刻々と変化する。一人の人の一生のなかで、過去のある時点とまったく同じ状況に遭遇することはほぼ考えられない。どんなチャンスも、どんなピンチも、その都度まったく異なったものとして現れる。故に、あの時の成功(失敗)が、必然的なものだったのか、偶然だったのかを(本当に正確には)知ることができない。成功した者の「成功」が、その人の実力によるのか、たまたまうまい具合に状況にハマっただけなのかは、本当は判断できない。そもそもそれぞれの人が、それぞれに「異なる状況」にあるので、どんな状況にも等しく適応可能であるような「実力」などあるはずもなく、すべて偶然と言ってもよいと思う。しかし「ゲーム」というのは、意識的に「同じ状況」を何度も何度も反復的に作り出す。できる限り「同じ状況」で競うのでなければ、フェアではないことになる。だから、人生の成功は偶然でしかないとしても、ゲームでの成功は(そのゲームという限定された環境のなかでは)「実力」によるものだと考えられる。人生の実力はあやふや(偶発的)だが、ゲームの実力にはある程度の客観性がある。

(人生=現実では、せいぜい数回しか振れないサイコロが、ゲームであれば数百回は振れる、というような。デュシャンは、芸術=フィクションから、チェス=ゲームへ移行する。)

つまり、一方に現実という偶然に満ちた唯一性があり、他方にゲームという、同じ条件の繰り返しから得られる(ある程度の)客観性(=必然性)があるとすれば、その中間にあるもの、一定の偶然性=有限性(現実性)と、一定の複数性=反復可能性(ゲーム性)の両方をもつものとして、我々が普段「フィクション」と呼んでいるものが位置づけられるのではないだろうか。だから、フィクションはゲームよりも貧しい(フィクションの再帰的フレームは、ゲームのそれよりも緩く、脆弱である)。しかし、その貧しさや脆弱さにこそ、ゲームとは異なる、人にとってのフィクションの意味があるのではないかと思う。

フィクションがゲームと違うのは「同じ条件で戦う」という前提がない、もしくは、とても弱いことだろう。条件の平等ではなく、むしろ、未知の状況から、未知のフィクションが立ち上がることの方が強く期待されている。

(メジャーな映画ならば、その映画は世界全体としてみればとんでもない回数、繰り返し上映されているだろう。ただ、あの人がある映画のことが大好きで何度も繰り返し観るとしても、その回数が、プロの棋士が生涯に行う対局数に並ぶことは考えにくいのではないか。では、同じ映画ではないにしても、年間に数百本も映画を観るシネフィルはどうなのか。シネフィルはもはや、「フィクションを行う人」というよりも、ゲームプレイヤーに近いのかもしれない。なお、ここでは「作り手」と「受け手」とをあえて混同している。フィクションにおいて、この違いは絶対的なものではないと考える。作り手も受け手も「フィクションを行う」という点で同等だ、と。ここでは、人の生の有限性の方を重要視している。)

さらに言えば、一人の棋士が一生に行う対局数など、機械学習するAIならば一瞬で飛び越えてしまうだろう。その意味で、ゲームよりもシミュレーションの方が反復可能性がずっと高く、故に客観性も高くなる。しかしここまでくると、人間のもつ有限性では立ち入ることのできない領域になる。だが、シミュレーションが、いかに膨大な反復可能性をみせると言っても、それが具体的に行われる「計算」に基づく限り、必ず有限数にとどまる。しかし、可能世界という概念を用いれば、可能世界は無限に存在するので、反復可能性としてシミュレーションを超える。

まとめれば、反復可能性の貧しさという観点から、「現実→フィクション→ゲーム→シミュレーション→可能世界」というグラデーションが考えられる。そして、我々が通常フィクションと呼ぶものは、現実と、ゲームやシミュレーションとの間にあるのではないか、と。フィクションは、ゲームやシミュレーションよりも反復可能性が低く、再帰のためのフレームも脆弱であるが、その再帰性、再現性のあやふやさ(条件の平等を求めないこと)にこそ、固有の可能性があるのではないか。