朝はやく。野球場のすっかり黄色くなった芝生の上に、霜がおりていて、白い絨毯のように外野に扇型になって拡がっていた。冬の青い空。冬枯れの枝。今日も寒くなりそう。<絵画にとってとても重要なことのひとつに、特別な技術なんてなくても、誰でもが、簡単に描くことが出来るということがあると思う。誰でもが歌を口ずさむことが出来るのと同じように、誰でもが、ふと思い立って、身近にあるものを使って気軽に絵を描くことが出来る。
絵を描くのは全く単純でプリミティブな行為だ。こんなに簡単なことはない。なにしろ、子供や赤ん坊にも、象やチンパンジーにだって出来てしまうのだ。
「 ぼくは絵をやってるんです 」「 彼は絵を描く人だから・・ 」「 絵が描けるなんてうらやましい。」こんな言い方には抵抗がある。だって、絵なんて誰にだって描けるでしょう。
誰にでも出来る分、自覚的に、意識的に、絵を描くのは難しい、とも言えるのだけど、でも、やはり、絵なんて、誰でもが鼻唄なんか歌いながらてもサラサラッと描けてしまうものなのだ、ということを忘れてはいけない。それは、全然、特別なことなんかじゃない。
誰にでも出来る、特別な技術を必要としないものだからこそ、本質的なものが露呈してしまうのだ。だから、ナメてはいけない。これが、最も基本的なことなのではないだろうか。
(専門家とか、スペシャリストとかいうのは、だいたいにおいて碌なものではなくて、既得権を守ろうとする役人なんかとちっとも変わらないのだ。そういう人たちがものごとの見通しや風通しを悪くする。専門家、は、決して解放なんかされないだろう。)
勿論、それとは別にコンテキストというものがあることは事実。例えばぼくは、西洋的なファインアートというコンテキストの内部で絵を描いている。そして、ファインアートという文脈のなかでも、様々なローカルな言語の間の権力抗争があり、作品を発表するということは、そのような権力抗争に何かしらの効果を与えることを期待してのことだ、と言えるだろう。これは、どうしようもない現実だけど、でも、ぼくが絵を描くのは、そんなことのためじゃない。大切なのはそんなんじゃない。>
『「 まだ絶望ではない 」と大きな声で言ってみるのはいいことである。もう一度「 まだ絶望ではない 」と。しかし、それが役にたつだろうか。』(マルテの手記)
そうですよね、リルケさん。お互い緩くないッスよね。実際。キツいッスよ。マジで。