朝帰り。6時30分過ぎ、東の空の下の方がオレンジに染まりはじめる。反対側には、まだ明るく輝く月。枯れた芝を踏み締めて歩く。タブノキ、ヒノキの脇を通る。冷たい空気。白い息。耳が痛い。歩く、歩く。蛇行して歩く。正面に見える団地が、朝日を反射して、輝いて見える。遠くから聞こえる救急車のサイレン。ポケットのなかの手も冷たい。
「 文藝 」のJ-ポップ特集は、ひどくくだらねー内容。
香山リカ斎藤環の対談なんてぼくにはさっぱり分らない。J-ポップをこんな風に分析することに何か意味があるの。こういうのって最悪の意味で80年代的なものなのではないだろうか。
例えば、椎名林檎戸川純を比較していることだけをみても、ピントが外れているとしか思えない。音楽的なバックグラウンドも違うし、売れている枚数の桁も全然違うし、受容している層も、随分と違う。「 歌舞伎町の女王 」のPVなんかを観ると、売り出す側は、多少そのセンを狙っていた節もみられるけど、実際には、「ああいう変なものを求める層」(斎藤)にだけウケている訳じではないし。(それだけでは、あんなに売れないでしょう)
斎藤氏も香山氏も、受け手の層の本質的な変化、のようなものに、あまりに無自覚なのではないのか。現在ではもう80年代の広告代理店的な概念操作(ガールズ・J・ポップのイメージ・マップみたいな)が有効だとはとても思えない。全然意味ないですよ、あんなの。かえって、あんなどうでもいいことを図示して、何かが分かった気になることの方が、ヤバいことだと思う。
二人とも、今起こりつつあることのリアルな感触を、少しも感じていなくて、いつまでも80年代的な思考のフォーマットでやっていけると思っちゃっているんだろうけど。全然駄目だよ、そんなの。
唯一、面白かったのは、佐々木敦氏の発言。例えばヒットする曲は『単純に一曲の力というか、単純にメロディが多くの人に訴えかけるものだったということが大きい』とか。勿論、あらかじめ「良いメロディ」というものがある訳ではなくて、結果として、多くの人にウケたから、そうだった、と言えるだけな訳だけど。『「あ、私はこの曲が好き、他の人がどう思っているか知らないけど、私はこの曲がすきだわ 」という個人的なチョイスの足し算が、すごい数になって売れてしまう曲って増えてきてると思う。マーケティング的理論では切れなくて、あくまでも「 私 」から始まるという感じになってきてると思う。もちろんすぐにそれは取り込まれて「 私たち 」的な共同性みたいなものになるんだけど。』
つまり、もはや流行現象は、アクシデントのようなものとしてしか現れない。無数のバラバラな「 私 」が、たまたま恐ろしいほどの量とて、繋がってしまう。
『歌詞がどうとか世代論や世界観がどうこうとかヒップホップがどうしたこうしたとか言われているけど、でもそれはあくまで二の次だったと思うんですよ。(略)なのにその二の次の事柄にある種の本質があるかのように考えちゃうんですよ。そういうレヴェルで批判とかしても、すでに売れているものを「 なぜ売れたか 」って書いてるだけで何も予測出来ていない日経エンタテイメントとかと同じです。』
これなんか、そのまま斎藤=香山対談への、的確な批判になっている。
ラカン的な用語で言えば、象徴界がひたすら衰弱して、想像界現実界が、直に直面してしまうような世界。そんな世界では『何だかわけわかんないけどコトを起こしてゆく方に賭ける』しかないでしょう。『今でも「 時代を読む 」なんてことをしようとしている人がいること自体がアホらしい。たぶん何も考えていないですよ、みんな』
で、ぼくは、椎名林檎を支持する訳です。