ひさしぶりにたっぷりと眠った。朝から雪がちらつく。雪のなかゴミを出し、テレビをつけて、そのまま、また眠ってしまった。昼前に目が覚める。
駅近くの自動車修理工場跡の解体は、順調に進んでいる様子。この調子だと、数日のうちにこの工場はみるみるなくなってしまうだろう。そしてそこに工場があったことは憶えていても、それがどんな外観をもったものだったか、どんな細部があったか、どんな雰囲気をもっていたか、など、すぐに忘れてしまうだろう。毎日通る道の途中に、少なくともここ6〜7年くらいは変わらぬ姿でずっとそこにあったものが、ある日突然なくなって、まあ、なくなるのは仕方ないとして、しばらくすると、なくなってしまった、ということさえ、忘れてしまうのだ。この工場跡が確かにずっとここにあった、という事実は、一体、何処へ行ってしまうのだろうか。というか、あったもの、が、なくなる、というのはどういう事なのだろうか。
サンクスで買い物。郵便局で資料を郵送。帰って、昼食。
国民健康保険の割り増し分の請求書が届いていた。げーっ、これで住民税と合わせるとかなり纏まった出費。
自動車修理工場の解体現場の回りには足場が組まれ、落下物が道路の方へ落ちないためのネットが張りめぐらされている。濃い緑色のネット。建物と道路の微かな隙間にのぞいていた土から生えていた植物は、なくなっていた。ネットが風でゆっくりと波打つようにゆれる。濃い緑色の波。
ものを見る、というのは普通、自らが置かれている状況を把握し、次の行動を準備するための情報を得るためのものだ。しかし、しばしば、見る、ことによって、今、ここ、で、自分が置かれている状況を失ってしまう。見たことによって得た情報によって、行動を起こす、のではなくて、「 見入って 」しまうことで、行動が止まってしまう。こういうとき、我々は、生きている現在という時間を見失い、別種の時間のなかに入り込んでしまう。
工場跡から、保育園の前を通って、家へ向かう途中にいる犬。よく吠える犬。
その先にある、掲示板。何枚も何枚もの紙が貼り付けられ、そして剥がされた跡ののこっている、その平面。
保育園から聞こえてくる、子供たちの歓声、奇声、ワーキャーいう声。
車のボンネットの上に猫の足跡。
( 夕方のニュースで、谷中霊園から上野公園、芸大のあたりに沢山生息してるノラ猫が、去年の暮れから、大量に変死しているのが見つかっている、というのを特集でやっていた。原因は今のところ不明。しかし、どうやら誰かが毒殺しているらしい、とのこと。)
突然、子供の頃に読んだ、「 消えた化け猫帝国 」という本を思い出した。