02/03/15

●同時代の作家の作品への評価や判断というのは、どうしたってその人物に対する個人的な感情だとか人間関係のしがらみなんかが絡んで、影響を受けてしまう。あいつの父親には世話になったとか、あの子は好みのタイプだとか、あいつはの俺の親切をアダで返しやがったとか、あいつと俺とは同郷だとか、あいつは俺が狙っていた女とくっつきやがったとか、まあ、そういう感情か渦巻いてしまうことは避けられなくて、その感情や利害がモノをくっきりと見ることを阻害したりする。確かに、そのようなもつれた感情とは一切無関係に成立する「中立的な」判断などというのはあり得ない抽象であり幻想であって、実際には様々な人間関係の力学が無意識の内にまで入り込んで、ある判断に作用してしまっていると言えるだろう。しかし、だからといってそこに「しがらみ」や「利害」や「政治」だけがあり、「しがらみ」や「利害」や「政治」が全てなのだとしたら、作品などというものには何の意味もなくなってしまうだろう。たとえ全くのニュートラルな立場での判断というものが不可能だとしても、出来得る限り「しがらみ」を切断するように努めた上で「判断」するという姿勢がなければ、「作品」という概念そのものが不可能になってしまう。どこかに理想的な、完璧にニュートラルな神のごとき視点や基準があるという訳ではないにしても、あらゆる「しがらみ」から出来得る限り切断され離脱する努力を不断につづけることは可能であるし、そのような意味としてのモダニズム、あるいはフォーマリズムというのは今日でも有効だし、また今日であるからこそ意味があるのだと言える。あらゆる「しがらみ」から切断された視点がどこかにあるのではなく、常に「しがらみ」を切断してゆく努力の持続としてしか、モダニズムはあり得ない。(だからと言って日常的な利害の世界から解放される訳では勿論なく、その一方で同時に利害の世界でも生きていくしかない訳なのだが。)柄谷行人なら括弧入れの能力とか言うのだろうが、そのような「能力」があるのではなく、括弧入れという権利を獲得するための努力の持続としてだけ、それがあるのだ。
作品が置かれる「場」というのも同じようなもので、どのような場であっても、そこにはあらかじめ社会的、歴史的、あるいは個人的な意味での「文脈」というものがあり、どのような文脈にも染まっていないニュートラルな場としてギャラリーや美術館があるのだ、などという考え方自体が、西洋、近代という文脈のなかであらわれたひとつの歴史的に限定された時期にのみ有効な概念でしかないのだ、というのは確かに「教科書」的には正しい。しかし、そのような「正しい」思想に基づいて、美術館がいわゆるアートに限らずあらゆる意味での「表象」を扱うという方向に拡張されたり、あるいは、我々が生活している日常的な「場」にアートが設置されたりするという方向に拡張されたりするような「正しい」試みは、確かに「正しく」はあっても少しも刺激的ではない。このような拡張の試みが(全てとは言わないがその多くが)何故弛緩した退屈な作品しか産み出さないかと言えば、そこには「作品」という概念がもともと孕んでいる「危うさ」に対してあまりにもお気楽であるからだと思う。「作品」という概念そのものがもともと近代的な枠組みのなかでしか意味をもたないとしたら、近代はもう過去のものだと主張する人々にとって、作品が作品である意味は一体何処にあると言うのだろうか。もともと「作品」とはその内部に抱え込んだ作品の死(つまり作品が作品としての「統一された意味」を維持できなくて、様々な文脈へと分裂し解体してしまうこと)とのギリギリの危うい緊張感の上で何とかかんとか「作品」を成立させようとする不断の努力の持続によってのみ、ようやく成立するかしないか、というものである筈なのだ。近代の終りや、芸術の終りを声高に主張するポストモダンな人が、何故「作品」という概念だけは平然と温存することができるのだろうか。
例えば一編の小説が、何語に翻訳されても、重たい全集版で読まれても、文庫本で読まれても、いつどこでどのように読まれたとしても、その小説がその小説であるという意味の「核」のようものは変わらないし、それをそれとして評価し判断することができる、という前提が成り立たなければ、とても「作品」などという概念は持たないだろう。しかし実際は、どのような状況でそれを読んだかとか、ページをめくる指が感じる紙の感触だとか、そに射している光、吹いている風、等々によって大きく影響を受け、印象は変化し、それを読んでいる時の一つ一つの場面、あるいは一語一語までへと「作品」は分裂し解体してしまうという側面は確かにあるのだ。しかしだとしても、もう一方で、その小説がその小説でなければならないという「必然性」というのもあるはずなのだ。つまり作品とは、常にこのような崩壊や解体の危機と共にあり、作品は作品の死との隣り合わせでのギリギリの緊張のなかで辛うじて成立するものなのだ。このような危うい緊張感とは無関係なところで、「作品はある文脈をもった場のなかで生成されるのだ」とか、「いや真正な作品はそれ自体で自律しているのだ」、などという議論がなされたとしても、そんなものに大した意味はなく、ただのペダンチックな饒舌に過ぎないのだ。
以上が、昨日、上野の森美術館で行われたVOCA展関連のシンポジウム、「絵画と『場』をめぐって」に対するぼくの感想だ。モダニズム的な枠組みから離れて(それを相対化して)、様々な文脈であらかじめ意味づけられている「場」に関わってゆくべきだと主張する(教科書的には正しい)人たちがいかに緊張を欠いているかは、今回のシンポジウムで、暴走族などがガード下に描いたりするグラフィックと呼ばれるような落書きを例に挙げて、それをバルトのトゥオンブリー論と絡めて、あれは暴走族が描いているのではなくて「場」の欲望が描かせているんだ、などと今時新鮮でも何でもない戯けたことを平気で口にする建畠哲氏を受けて、長谷川祐子氏が、その通りだと思います、などと笑いながら言い、まるでそこに気の効いた会話でも成立したかのように会場にまばらな笑いが拡がってゆくという、あの何とも耐え難く白痴的な「場」を目撃した人なら、身に染みしみて分ったのではないだろうか。単純に、もっと真面目にやれ、と言えばそれですむ問題なのかもしれないが。