昼前に目が覚める。昨日遅くまで、というか今朝まで、メールを書いていたので、目がピクピクしてる。洗濯する。コインランドリーの乾燥器にかけると、服が鉄臭くなる。
蔦屋へ行って、くるりのマキシシングル「 虹 」と「 青い空 」をレンタルしてくる。あ、くるりにも佐久間正英がかんでるのか。ついでに、モーニング娘の新しいシングルと、オザケンのアルバム未収録のシングル数枚も。最近こんなのばっか聴いてる。椎名林檎の新しいやつは、まだレンタルに出てなかった。うーん、こうくるのかモーニング娘。(インスト聴くと、これ、モロに、ジン、ジン、ジンギスカン、じゃん。)古本屋で、ロブ・グリエの「 嫉妬 」を買う。でも、これ、読むのか。
アトリエで製作。ここんとこ、中途半端な迷いがあって、手が入らなかったのだけど、やっと、本当にやっと、もう、これでいくしかないでしょう、という感じになる。とりあえず、次の展覧会に関しては、いいも悪いも、これしか出来ねえ、と開き直る。この方向で、あともうひと押し煮詰めて行こう。矢でも鉄砲でももってこい。
小津の「 浮草 」。戦後の小津の作品で、何故かこれだけ今まで観る機会がなかった。
小津が、松竹の外で撮った作品には、何か独自のものがある。
小津が決して形式主義的な監督ではないことをあらためて感じる。
小津は俳優を最大限に尊重している。笠智衆佐分利信に対する演出と、中村鴈治郎に対する演出とは明らかに違っているし、原節子に対する演出と京マチ子に対する演出も全然違う。演出という次元だけでなく、笠=佐分利=原などの出ている作品と、中村=京などの出ている作品とでは、内容も、リズムも、違う。まあ、どちらにしても、断固として小津調ではあるのだけど。
それは小津が、演出家の演出によってでは、決して制御することの出来ない、俳優の、人格や、身体の、「 固有性 」というものを、尊重しているからだろうと思う。当たり前の事のようだけどこれはとても重要なことだ。小津という監督の柔軟性に、あらためて驚きと、尊敬を感じる。
小津の映画において、心を通わせるもの同士は、決して向かい合って互いを見つめあったりはせず、横に並んで、二人で同じものを見る、というは良く知られた事実だ。しかし「 浮草 」で中村鴈治郎京マチ子が和解するシーンでは、二人は向き合っている。(タバコをくわえて、火を捜す中村鴈治郎に、京マチ子が正面に廻って、マッチで火をつける。)これは、「 浮草 」での二人の関係が、例えば「 東京物語 」の笠と東山との関係とは、基本的に違うものだ、ということを現している。おそらく京マチ子という女優の固有性が、小津にこのような演出をさせたのだろうと思う。