濃い青。青い青い空。雲ひとつない。つめたい風。壁に映る木の影が、その風でゆれている。日光を反射して白く輝く壁と、影の強いコントラスト。こういう空の青を見ると、自分が描いている絵の青に絶望してしまう、なんてのは、ちょっと大袈裟すぎる言い方。ゴダール「 パッション 」の空。フォードの空。小津の空。あるいはセザンヌの空。小林正人の空・・・なんて、こんな風にレファランスをいくつ重ねてみても何の意味もない。問題なのはこの空の青。空がこんなに凄い青であることに、実は、何の意味もない、というのがこの世界であり、この宇宙であるのだった。なんて事だ。世界は無意味であり、宇宙は空っぽであるということを、否応も無く示してしまっているような青=空。古びて錆びが出ている交通標識のネジがゆるんでいて、冷たい風でカタカタ音をたてて揺れている。並木道。空にヒビをはしらせるように伸びている木々の枝。団地と団地のあいだ、ぽかんと空いている空き地に生えている背の高いすすき。すっかり枯れて、イエローオーカーというより、ローシェンナーのような色。
今、フィルムセンターでやっている、ハワード・ホークス映画祭にはまだ一度も行っていない。これは一体どういう事 ? ちょっと前だったら、「 特急二十世紀 」だとか 「 僕は戦争花嫁 」だとか未見のコメディーが観られるというなら、あらゆる予定をキャンセルしてでも駆け付けたはず。なのに何故 ?
ホークスの映画が素晴らしいものであることは疑いようのない事実。例えば「 赤ちゃん教育 」はぼくが知っている限りでは映画史上最も抽象的で完璧なフォルムをもった映画のひとつだと思う。にもかかわらず、どうして以前ほどホークスに熱狂できなくなってしまったのだろう。
ひとつは、ホークスの映画の完璧さと、今、ぼくが住んでいる「 この世界 」の感触が、あまりにもズレてしまっている、ということがあると思う。ホークスの映画に流れる時間は、あまりにも充実しすぎているのだ。(とはいっても、少し前にビデオで観た「 脱出 」はほんとうに素晴らしかった。でも、訳もなく、こういう素晴らしさに陶酔してしまっては駄目なのだ、という思いも同時に強く沸き上がってきたのだった。)
ホークスというとすぐに「 古典的なハリウッド映画の物語の透明性 」のようなことが言われるけど、それはどうだろうか。だいいち、目の前にあるのは、ただの映像と音声に過ぎないのだし、映像とはそれ自体で雑多で不純なもので、それが100%透明に物語に貢献するなんてことはあり得ない。ことにホークスの場合は、目に見えないほど多数の記号のセリーの束が、目に見えないほどのスピードで画面を横断してゆく様がなにより素晴らしいのだから。それが、純粋で透明なものなんかであるはずがない。
にもかかわらず気になるのは、ホークスが余りにも完璧にそれらをコントロールしてしまっている、ということ。勿論、その完璧さそれ自体は、とても素晴らしいものではあるのだけど、その素晴らしさは、今、ぼくが生きている場所、とは、あまりにかけ離れてしまっているように感じてしまう。というか、その素晴らしさにマニアックに埋没してしまうことは、なんとしてでも避けなければ。
(でも、今、ホークス映画祭のHPをみたら、「 僕は戦争花嫁 」のチケットは、まだ少しだけのこってるんだなあ。うーん。舌の根も乾かないうちに、観たくなってきた・・・)
午後3時過ぎ、あれだけ青かった空が、西の方から白く透明な感じに変わってきた。グランドの平らな土の上に、その廻りに植えてある木々の影が、長く長くおちている。太陽の周りの空が、白くキラキラと輝く。