少しだけ日の出が早くなったのか。AM6:00。東の空がエメラルドグリーン。遠くから自転車をこぐ音、というより、チェーンがその脇にある鉄板にあたる、タン、タン、タン、という音が、自転車をこぐリズムで、聞こえてくる。そんな音が耳につくくらい、静か。カラスの群れが、上空を通過する。
我々は、ひとつの事物に対して、複数の感覚をもつ。
例えば、目の前のコーヒーについて、視覚、嗅覚、触覚、味覚、等から感覚を得ることができる。そしてそれらの諸感覚は、「 私 」というひとつの身体のなかにありながらも、バラバラに作動している。
視覚によっと捉えられるコーヒーの色は、それとは別の褐色のものを連想させるかもしれないし、コーヒーの香りも、視覚が連想するものとは、別の何ものかを呼び寄せるかもしれない。コーヒーカップを持つ手の暖かさは、他の感覚では思いもつかないもの(例えば、人の心の暖かさ、とか)と、接続する可能性を持つ。
ひとつの事物に対して、複数の感覚器官が同時に作動するということは、それらが必ずしも共同してひとつの事物のありようを、立体的に構成するとは限らない、ということを意味する。複数の感覚器官によって感じられた、複数の感覚は、互いに参照しあい、反響をつくりながらも、乱反射し、あらぬ方向へ突っ走ったりすることもあり得る。
異なる感覚器官による、異なる感覚は、その感覚された事物相互の差異とは、必ずしも一致しない。例えば、林檎と電気ストーブのニクロム線とは、赤という色彩(視覚)によっては、近親性をもつが、触覚において(冷たい、熱い)は、何の近親性ももたない。つまり、感覚は、感覚された対象とは、別の次元で、何かと関連性をもったり、もたなかったりする。このことは、我々は本当のもの(もの自体)を知覚することが出来ない、ということではなくて、感覚には、複数の異なる平面があり、そしてその複数の平面は、決してひとつのパースペクティブによって秩序だてられたりはしない、ということを意味する。
複数の感覚は、決してひとつに取り纏められない、ということは、我々は決して、世界を一挙に、一望のもとに眺めることは出来ない、ということだ。ある感覚によって世界を把握しようとすれば、必ずべつの感覚によって裏切られる。
セザンヌは視覚によって世界を統合しようとするが、常にそれに失敗しつづける。セザンヌの絵画には、様々なノイズが侵入していてしまい、彼はそれを決して充分な形に仕上げることは出来ない。だからセザンヌの作品はいつもギシギシ軋んでいて、ぶっ壊れる寸前でなんとか持ちこたえている、という感じなのだ。いかにセザンヌ本人が、全ての事柄が、イメージのもとに、ぴったりと噛み合うことが重要だ、と語っていたとしても、そんなことは実現不可能なことだし、実際、ちっともそうなってはいない。
このような失敗こそがセザンヌの絵画の魅力であり、刺激であり、可能性の中心なのだ。
メルロ・ポンティは、そのことを見ようとしない。あたかもセザンヌの企てが成功したかのように語ってしまう。これは欺瞞以外のなにものでもない。
セザンヌを肯定し、絵画を肯定し、現代においても絵画の可能性を信じるとするならば、現象学的な「 生きられた身体 」を捨て去らなければならない。
器官なき身体 」という言葉が少し前に流行ったけれど、画家にとって身体は、複数の器官でしかないもの、「 器官しかない身体 」、あるいは「 身体なき器官 」のようなものである必要があるのではないだろうか。
Oさん、今日は御馳走さまでした。黒沢清の話、その他の話、とても面白かったです。よい原稿を書いて下さい。期待しています。(これから、大いなる幻影論、読ませていただきます。)Kさん、展覧会は明日観に行きます。最終日になってしまって、すいません。