●今日も散歩。昨日にひきつづき、足と地面との接触感と、地面の傾斜の変化(によってもたらされる感覚の変化)に注意を払いながら歩いたのだが、昨日と違って、今日はよく晴れて光が強かったので、視覚的な刺激も強く入ってきて、目眩がするほどの過剰な感覚的入力のなか、とても充実した散歩になった。風景を視覚的に受容しながら、傾斜する地面と垂直に作用する重力との関係によって生じる、からだの軸の傾きの移動を腰のあたりで感じ、そして、一歩足を踏み出すだびに感じる、足の裏に対する地面の反発やひっかかり感、下半身全体ににぶく響く筋肉への負荷の感触等も同時に感じつつ、複雑にうねる坂道をあるいていて、ふと、セザンヌが、サントヴィクトワール山を描くために山道を登っていた時に感じていたのは、こういうことだったのではないかと思った。地形が身体の上で感覚化される、というのか。坂道を歩くことは、例え目を塞がれていたとしても、相当に面白いことなのではないだろうか。
しかし、重力と軸の傾きを、たんなる平面上での(視覚上の)動きを生むための「傾き」ではなく、地形や地面(が感覚に及ぼすもの)の次元にまで作品に反映させるのは、絵画や写真や映画といった視覚的、平面的な表現ではとても困難なことだろう。セザンヌの異様さの原因のひとつは、これをやってしまっているというところにあるのかもしれないと思った。
坂道と言えば、荒川修作が「建築」という名でやっていることの多くは、要するに、様々なバリエーションの傾斜をつくって、そのなかを人に歩かせる(あるいは移動させ、あるいは住まわせる)ということなのではないだろうか。
●肩凝りはすこしだけ楽になる。本をすこしだけ読む。