ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』

ハワード・ホークス赤ちゃん教育』をDVDで。トラウマと言っていいほど強烈な映画体験というのがいくつかあって、この映画を初めて観た時も、そのひとつ。もう二十年も前だが、十代終わりの浪人中で、既に何本もホークスを観ていたし、蓮實重彦のホークス論とかも読んではいたのだが、ホークスの面白さはいまひとつよく分からなかった。予備校の帰りに何の気なしに借りてきたこの映画のビデオを、寝る前にどんな感じか、せいぜい最初の十分が二十分くらいだけ観てみようと思って再生したら、もう、瞬きをする暇もないほどの勢いで、もの凄いものが、もの凄いスピードで目の前を駆け抜けてゆき、しかも全く尻尾を掴ませずに跡形もなく消え去ってしまう、という感じで、その時は大げさではなく、こんなことがこの世界で起こりうるのか、というくらいの驚きだった。で、今観たものは一体なんだったのだ、という思いでもう一度はじめから観直して、しかしそれもまた、あっという間に駆け抜けていってしまい、さらにもう一度、という具合で、結局朝まで寝ないで4回繰り返して観たのだっだ。この映画では、アクロバティックなアクションなど全くないのだが、たんに人が転んだり滑ったりするだけのことが、こんなに凄いことなのか、と思い知らされた。
●この時の体験があまりに強烈だったので、その後、今まで観直すことがなかった。今観ると、さすがに当時とは違って、いろいろ見えてしまうものとかもあって、当時の自分が、何故、ことさらこの作品に惹かれたのか、などと考えてしまうのだが。ホークスの映画は、よく言えば抽象性が高く、悪く言えば一定の要素の順列組み合わせという骨組みだけで出来ているという傾向があると思う。それでも、男たちの話(『ハタリ』とか)では、そこに(神話的とも言える)大らかな楽天性のような雰囲気が生まれるのだが、男女の話(『三つ数えろ』とか『脱出』とか)になると、より抽象性が高くなる。そして、コメディ(『ぼくは戦争花嫁』とか『ヒズ・ガール・フライデー』とか)になると、ほとんど非人間的な、精密機械の自動的な進行のような、乾いた感触になる。そして『赤ちゃん教育』は、ホークスのコメディのなかでもことさら抽象性、ホークス的な要素の凝縮性が高く、つまり、意味的なものの濃度が低く、より純粋に遊戯的である。それは作品外部からの観照物(作品外部から供給されるものの力)をきわめて貧しくしか持たず、作品内部(あるいはホークス的な要素内部)のみで閉ざされていて、それらのそれぞれの要素の、複雑で精密な(そして唐突な)、組み合わせや運動性の精度や、振動の強度のみで自らを支えている度合いが高いようにみえる。今もその傾向は強いのだが、当時のぼくはことさら「ナンセンス」というものに強く惹かれていて、意味が希薄な作品に惹かれる傾向にあった。(しかし、純粋な振動に自らの身体を開く、というのはお題目となりやすく、しばしば、「意味がない」という「意味」を求めているだけ、という状態へと堕落する。あるいは、非人間的な残酷に惹かれる、人間的な甘い感情がある、とか。つまり、純粋な振動とか強度とかいうものは、過酷な現実的諸関係のすべてを拒否、あるいは一気に無化=空洞化するが、それと同等の強さと繊細さとをもった抽象性を独力でたちあげられなければ、たんなる、失われた「母との対象関係の場」への退行でしかなくなる。これは、ぼく自身の傾向としてそうだ、というだけでなく、ホークスの映画でも、最も抽象化されたコメディこそが最も弛緩したものになり易い、ということでもあろう。)
●とはいえ、あらためて観ると『赤ちゃん教育』にもけっこう「意味」はある。スクリューボール・コメディはセックスウォー・コメディとも呼ばれ、ヘイズ・コードというきわめて厳しい性的表現への検閲を逆手に取って、男女間の闘争を描くものなのだが、この映画もまた、女性が堅物の男性をなんとかして誘惑し、陥落させ、婚約者から略奪する話ではある。(つまりこの映画のお話を作動させているのは「愛」であり、愛とはおそらく人間にとって最も強い重力をもった「意味」であろう。)男性は、博物館で毎日恐竜の骨を相手にしているような人物であり、性的な誘惑に対してまったく疎く、無関心である。そして、女性は、最強に「天然」である。(つまり、この映画の抽象化された運動を支えている力動は性的なものであり、しかしその生々しい感触は隠されている。)女性は常にどこかズレていて、いつも状況を混乱させてしまうので、男性を誘惑し、自らの傍らに居させようとする目論みに常に失敗し続ける。しかし結果として、失敗し続けることによって、誘惑に成功する。「失敗することによって成功する」ことで、女性の誘惑から「策略性(目的)」が消失し、そこに行為の純粋性が担保される。「失敗することによって成功する」という言い方は、出来の悪いジジェクの口まねみたいだが、失敗することで状況が錯綜し、運動が多方向へと拡散し、それらが次々と連鎖し、男性を誘惑するという「目的」が無化されてしまい、そのような目的を見失った場所で右往左往するその時間そのもの、その時間のなかで行われる(目的を見失った)行為そのものの純粋性が振動し、それが二人にとって(事後的に)最高の時間となる。(運動を発動させ、持続させる力は、性的なものから供給されたとしても、その運動は必ずしも性的なものに奉仕するわけではなく、抽象化し、次々と別のものへと連結してゆくことで拡散してゆく。つまりこれによって愛という意味=重力は、その力を保ったまま、木々のざわめきのような、機械の作動する振動のようなものとなり、重力を脱する。)しかし、《「失敗する」ことによって成功する》しかない二人の関係は、《失敗することで「成功」して》しまった瞬間に別物になってしまうだろう。男性が「君といた三日間は生涯で最高だった」と口にした(意識した)瞬間に、それは幸福な過去=記憶として確定されてしまい、それ自体が(先取りされた)「目的」と化してしまい、振動としての純粋性は消えてしまい、重力が再び戻ってくるだろう。