ハナミズキ

池の脇に、紅白のハナミズキの花が咲いている。
『ありゃあ、ハナミズキだろ。ヤマボウシはまだ芽も出てないんじゃねえか。あの、東の門のとこにあんだろ、生け垣んとこ、道路側に。あれがヤマボウシだぜ。あれ、まだ芽もでてないだろ。』
なるほど。
『ミツバはねえ、ほら、もう終わっちゃてるからねえ。今はねえ、ヤマブキとヤマツツジだねえ。ちょうどさあ、今、盛りだろうねえ。今んとこはねえ。』
なるほど。
やはり今日は竹の子日和。竹薮には、小さな芽が土の上に沢山頭を出している。でも、午後になって同じところを通ったら、もう既に荒らされていて、掘りおこされ、穴だらけで、周りに竹の子の皮が散乱していた。(『えげつない』という言葉を視覚的に表現すると、こんな感じか、というような光景。)
夕方の黄色くなった光が、黄緑の葉に横ざまに当たって、その葉と光が、ゆらゆら揺れる。
夜。雲がかかって、赤い空。サルスベリの木の表面が、街灯で、てらてらてらっと光る。
やっかいな問題が起きる。かなりめんどうなことになるか、と思われたが何とか解決。でも、なんか、後に、嫌ぁーな雰囲気を残しそうな気配。げんなり。
(『アイズ・ワイド・シャット』についていろいろ書いたけど、繰り返すけどそれはこの映画が素晴らしい出来だからではなくて、キューブリックが、キューブリックのまま亡くなってくれたら、『やはりあいつは、ああいう奴だったのだ』と、安心して誉めたり貶したりできるのだけど、最後の最後になって、ああいう大きな転換というか、揺れ、のようなものを見せられると、こちらとしても『一体これはどういうことなんだろう』と強く動揺せざるを得なかった、ということなのだった。だからもしかしたらそれは『作品自体』とは別の問題なのかもしれない。
あと、この映画はあくまで男の妄想の映画なので、女の人からみると全く違った感想があるかもしれない、とも思う。一般的に『女』というのではなくて、例えば具体的に、実生活でもトム・クルーズの配偶者であり、その役を演じたニコール・キッドマンが、撮影しながらどんなことを感じ、考えていたのか、ちょっと聞いてみたい気がする。プレス向けのインタビューなんかじゃなくて。つまりこの映画は、作品の『内容』や『出来』そのものよりも、それに関わった人がどのように関わったのか、ということの方に興味を持たせるようなタイプの映画なのではないか。)