01/4/5(木)

今日から祖師谷大蔵のギャラリーTAGAで始まった加藤陽子・展の作品は、もう鬱陶しいくらいに、超重量級に「本気」なのだった。この「本気」が、一体どのような根拠によって支えられているのか不可解なくらいの、いくらなんでもこんなに本気じゃあヤバいんじゃないだろうかと引きぎみになってしまうほどの「本気」さが、彼女の作品には漲っているのだ。(4/1の日記で言及した笙野頼子のような「愚直」な本気さ。)だからここに展示されている作品は、それを受け取ろうとする側に、かなりな覚悟と感受性の懐の深さを、押し付けがましいくらいに要求する。何も全ての人が、自分の存在の全てをべったりと張り付けてしまっているような、ここまでの本気さを受け取らなければならないという義務などないのだから、ちょっと、そんなにヘヴィーなのはパス、と言ってしまうことはできる訳なのだが。(しかし、いかにも賢明に「本気」のヘヴィーさをはぐらかし、避けることに成功したかと思えた人も、必ずどこかで、不意に回帰する「本気」に襲われてしまうだろうということは避けられないと思うのだが。)

彼女の絵画作品の過剰なまでの本気さは、既成の美術批評の言葉にはどうしたって上手く納まらない訳で、だから彼女自身、自分の作品について語る適当な言葉を持ってはいないので、彼女の口から出てくる言葉は、時にバカじゃないかと思えるほど素朴なものであったり、時にはアブナイ人なのではないかと思えるくらいに「神秘」がかっていたりするのだし、彼女の作品そのものにも、そのような弱さを時に覗かせるものがあるのは事実なのだが、しかし少なくとも成功している作品については、近代主義的な形式分析にも充分耐え得るくらいのクールな形式性をも同時に兼ね備えたものである、ということは強調しておきたい。

実は、ぼくと加藤陽子とは、10代の頃からお互いに知っていて、いわば古い知り合いといった関係である訳で、そういう人に対してこういう風に書くのはなにか「仲間誉め」(しかしこの文章は誉めたことになっているのだろうか)みたいで嫌らしいのだけど、彼女の作品にみられる半端ではない「本気」さは、美術というジャンルに限らず、もっと広い領域まで含めてみても、そうそうめったに見られるものではないということは事実であると思うのだ。特に今回の展覧会に展示されている『春』と題された作品は、彼女の代表作にもなり得るようなものだとぼくには思えた。