「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」(林道郎)アンディ・ウォーホル

●ART TRACEが出している「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」(林道郎)のアンディ・ウォーホルの巻を読んだ。ウォーホルという名前は超有名なのにも関わらず、その活動や作品の詳細は以外と知られていなくて(ぼくもそれほどは知らなくて)、例えばウォーホルの重要な作品の多くが、1962年という一年間に集中してつくられた、ということを知って驚いた。ぼくはウォーホルという作家はとても重要で、面白い作家だと思うのだが、結構、モンローやプレスリーのポップな版画をつくった人くらいの認識しかない人が多くて、それらのイメージは既に、ジェームス・ディーンの映画ポスターくらいにポップ・アイコンとして古くさいものになってしまっているのだが、ウォーホルの面白さはそんなところにだけあるわけではなくて、その意味で、この本はウォーホルはもっとずっと面白い作家なのだという啓蒙として優れていると思う。ただ、必要以上にアメリカ美術の文脈との関係を強調しすぎているようには感じられるけど。
●ただ、これはウォーホルについて、この本について、ということに限ってではなく、とても気になってしまうことがある。例えば次のような部分。
《(「酸化絵画」というシリーズについて)これは、銅板を酸化させたものなのでそう呼ばれるのですが、問題は何によって酸化させているかということ。これが、小便なんですね。つまり、床に置いた銅板の上に、複数のアシスタントや友人に小便を降りかけさせてつくったものなんです。(略)それを知ると、どうしても様々なコノテーションを読まざるを得ない。》
《これが、やはりポロックに対するコメンタリーとして成立していることは誰しも気付くことだと思います。(略)この作品では、面の水平性ということが強く意識されます。ポロックが、水平面の上に絵の具を落とした仕種を、ウォーホルは、小便という汚物で反復するわけですね。そのことによって、グリーンバーグが、ポロックの作品を「絵画」という垂直面の世界に持ち上げて解釈したその上昇運動に対して、それを再度、低いもの、汚物的なるもの、退行的なもの、あるいは、同性愛的なコノテーションをも感じさせるものへと貶め、ポロックの身ぶりが潜在的にもっていた脱落への、解体への、あるいは停滞への指向を顕在化させている。こういう読みは、クラウスやボアによって提案されていますが、それにおおむね賛成しつつも、僕は、やはり、そういった感覚の喚起に言語的なものが介在していること、つまり「知ること」が介在していることが気になります。》
まず最初に、これが林氏に対する文句や言い掛かりではないことを確認した上で言うのだけど、このような言い方が、現在の美術を巡る言説の「下らなさ」を反復してしまっていて、それを典型的にあらわしているように思う。林氏は、このような言い方が「言語を介在させてしまっている」こと、つまり、作品から直接受ける「感覚」ではなくて、作品にまつわるエピソード(小便によって描かれていること)によって発動されていることへの疑問を口にしている。でもぼくがそれ以上に気になるのは、何故、水平に置かれて描かれたこと、絵の具を垂らすように、小便を垂らして描かれたこと、という事実が、すぐに(ほとんど自動的に)、ポロックグリーンバーグという名前と結びついてしまうのか、ということなのだ。この手の「言説」は、アート(作品)の意味が、自動的にアート(アートを巡る言説)に折り返されて、その内部でリフレクションを起こすことのみで成り立つという前提にのってしまっている。ぼくは、ロザリント・クラウスって本当に下らない批評家だと思うのだけど、それは、彼女の批評が全く「批評のための批評」でしかなく、その意味が、大学の美術研究者やアート関係者たちによって形成されている「言語空間(批評空間)」内部での政治的(位置取り的)な抗争のなかでしか意味を持たないと思えるからなのだ。(まあ、ぼくは翻訳されているものしか読んでないし、その限りでの判断でしかないのだけど。)つまりそこでは、作品、あるいは作品から得られる感覚は問題ではなく、「作品に対する言説」を巡る政治だけが問題なのであって、言説に対する言説、言説のための言説でしかないと思えるのだ。(対して、フリードは、結構変なことを平気で言うにも関わらず、あくまで「作品(作品から得られる感覚)」が先にあって、それによって言葉が組織されているという感じがあるからこそ、面白いのだと思う。)フリードが、ミニマリズムに対してカロを賞賛する時、そこには、モダニズムというイズムや、自身の立ち位置についての戦略があるよりも前に(それが「無い」とは言わないが)、単純にカロの作品が「好きだ」という事実(作品を観るという経験)があると思えるのだが、クラウスが「アンフォルム」とか言う時、そこには、モダニズムグリーンバーグに対する自身の立ち位置の問題や戦略があるだけで、作品はその実質を抜き取られ、言説上の政治のダシに使われているだけとしか思えないのだ。これはただクラウスの問題というだけでなく、現在、美術をめぐる言説の多くが(あるいは作品さえもが)、美術という言語ゲーム(「美術作品についての言説」という言語ゲーム)の内部のみで意味をもつものとなってしまっているように思える。だからこそ林氏の本(この本は良い本だと思うけど)で、ウォーホルの作品と戦後アメリカ美術の文脈との関係がちょっと過度に強調されていると思える部分が、どうしても気になってしまうのだった。