『細雪』

●『細雪』は、文庫や全集などで既に何種類か持っているのだが、改めて筑摩書房の日本文学全集の谷崎潤一郎(二)を古本屋から買ったのは、巻末の吉田健一の文章が面白そうだったからだ。吉田氏はこの文章で、小説では、それがどんなに奇抜な話であろうと、それが描く世界は、そこに人間が現実に生活している世界と同等のものが無ければ話に成らないと書く。
《そこには基本的には我々が生活している世界でと同じ空が上に広がり、それ故にその空は我々が見馴れているのと同じ具合に晴れたり、曇ったりし、地面に砂利が敷いてあれば、そこの所を読んでいる我々の足下もその砂利に躓き、建物の低い戸口から中に入って行く時には、その為に屈むのが我々にも感じられなければならないのである。(略、登場人物が「生きている」ということについて)実際には、その人物が登場する場面の凡てが我々の世界を思わせるのでなければ小説の現実は成立しなくて、人物だけに幾ら工夫をこらしてもそれが生きてくるということもない。》
《小説家の想像力は我々の世界を小説で再現するのに必要であるのみならず、その再現された世界の事象の一つ一つに就いて我々の日常の世界でと同様に作用し、それだからこそそこに想像上の人物を置いてみたくもなる。》
《我々の生活で我々が感情に駆られてでもいない限り、自分も、自分が立っている地面も、その感触が足の裏に伝わるのも、何れも我々にとって現実の一部をなす点で相等しいのと同様に、小説でも幸子が向かっている鏡台が幸子に劣らずそこに確かになければならず、「細雪」では何れもそこにあり、我々は末の妹の妙子が幸子の化粧を手伝って幸子の肩に白粉を引くのをその一刷毛毎に感じ、又それを感じるから、白粉を引いている妙子も、引いて貰っている幸子もそこにいることを認める。(略)こうして凡てがこの調子で対等に一つのものに織りなされているのがこの「細雪」という小説で....》
小説のなかの世界が、我々が現実に生きている世界と「同様に作用する」ものであるからこそ、そこにフィクションが成立し、想像上の人物が生き、動くことが出来る、と。それともう一つ、小説のなかでも、現実と同じように「時間」が流れなければならないとする。
《殆ど時間がそこに流れているか、いないかで小説の成否が決まるとも言えて、そこに永遠の瞬間というようなものが現れても、その瞬間は永遠であることとともに消えて小説の時間は進行する。(略)「細雪」には筋らしい筋がないという印象を受けるのは、それ程確実に、徐々に時間がたって行くからで、瀬越と見合いをしに行く時は三十だった雪子が最後に御牧と縁談が調う頃には三十七になっているがその通りに七年の歳月の経過を我々に感じさせる。》
《勿論、ただ時間がたって行ったと書くだけでそれを我々がそう受け取るというものではなくて、時間がたつには先ず書く方にとって時間が実在しなければならない。それは丁度、泳ぐものが絶えず水の抵抗を肌に感じているように、自分が時間の流れのなかにいるのが身近な事実になっていることを意味し、それが、ものがその流れのなかでどういう風に動くかを教える。この小説には筋らしい筋がないという感じを受けると書いたが、それはものの動きが時間の流れと一つになっていて、我々が小説を読んでいるのを忘れて我々の日常の生活をそこに見るからである。》
今日は引用ばかりになるが、この文章はとても面白い。
《「細雪」では女達が使う化粧品まで細かに説明してありながら、例えば、その女達がどういう気でいるかに就いては何も書いてないという批評もあり、それが必ずしも当たっていない訳ではないが、我々が小説に求めるのは人間がその小説の世界にいて生きるのを続けることであって、もし本当に人間がそこにいれば、我々の日常の生活でと同様に、我々はその人間に好奇心は抱いても、その人間が自分のことを説明しないのを不満に思うということはない。》
女達を描くということは、女達が「どういう気でいるか(何を考え感じているか)」を描くことであるよりも、女達が使う化粧品や、女達が覗き込む鏡台といったものを、女達と同等に存在させることであり、それが存在する空間を、それが存在した時間を、我々が現実にそのなかで存在している空間や時間と「同等に作用するもの」として浮かび上がらせることなのだ、という風に纏めてしまうのは簡単過ぎるだろうか。ここで谷崎潤一郎について言われていることは、ほとんどそのまま、例えばオースティンやカフカ(の長編)、シモンなどにも言えるのではないだろうか。