『サマー/タイム/トラベラー(1)』(新城カズマ)

●『細雪』を読んで、『サマー/タイム/トラベラー(1)』(新城カズマ)を読むと、(小説としての豊かさは勿論別にして)「萌えキャラ」(雪子、悠有)のつくり方というのは、時代を超えて案外変わらないものなのだなあ、と気付く。
●『サマー/タイム/トラベラー(1)』という小説をライトノベルといってしまって良いのか分からないけど、こういう小説を好む人は、「物語」を消費するのではなく「感情」を消費しているのだろう。つまり「切なさ」みたいな感情に浸されたいという欲望が先に(潜在的に)あって、自分の脳を「切なさモード」にしてくれる無数のスイッチが埋め込まれたものとして、こういう小説を読む、と。(エロい気持ちになるためにポルノを見る、みたいな「実用的」なもの。)実際この小説にはそういうスイッチがしつこい程たくさん仕掛けられていて、これでもかという勢いで読者をある感傷的なモードへと引っ張ってゆこうとする。例えば、事件が起きてしまって、何か重要なものが既に失われてしまったという事後的な時点から、回想として語りかけてくる語り口は、しつこい程にくり返し、何かが「既に起こってしまった」ことを強調し、それによって感傷的な喪失感やニヒリスティックな無力感を作中に漂わせると同時に、その効果によって逆に、描かれる事件そのものや、その事件の当事者である高校生たちの「その時間」のかけがえのなさ、その幸福感や危うさ、つまり「十六の夏は一度だけ」みたいな感覚を盛り上げ、それによって、ちょっとでも切ってみるとどの部分からでも「切なさ」が噴出するぞ、といった切なさポテンシャルの高い時空を生み出す。(このようなやり口=操作を最も洗練させて行うのが村上春樹だろう。)一見、衒学的な会話がだらだらつづいているだけのようにも見えるのだが、実はそのような会話を交わすとこのできるコミュニティ(友人関係)が成立している「今・ここ」のかけがえのなさが、事後的な語りが帯びている喪失感によって強調され、それによってその「語りの場」は常に感傷的な色彩に染められている(切なさポテンシャルを孕んでいる)のだ。(だからこの衒学的な語りの「内容」はぶっちゃけどうでもいいのだ。)この小説では、そのような「やり口」が、SFとしての「ネタ」に密接にと言うか直接的に関係しているところに、この作者のクールな操作性が感じられる。
しかし、この小説の設定の「あり得なさ」は、(オタク的ユートピアを描いた)ひとつのファンタジーとして、まあ受け入れられるとしても(それにしても、ここまで大げさなキャラクター設定をしないと、キャラを立たせることが出来ないというのは、どうかと思うけど、)、この手の語り口に必然的にまとわりつく、あまりに濃厚な「自意識」の匂いには、ぼくはどうしても馴染むことが出来ない。ただ、この小説はそのようなライトノベル的なフォーマットを意図的=操作的に使用しつつも、それが(例えば西尾維新みたいに肥大化した自意識が世界と重なり合ってしまうような)自意識=世界として閉じてしまわないような、様々な厚みや深みをその世界に導入する仕掛けもいろいろあって(例えばある地方都市の地理や歴史や政治をまるごと抱え込もうとしていたりする、これについては石川忠司の「藩」の話をちょっと思い出す)、あくまで「本好きのマニアックな十代」に向けて誘惑する商品として組み立てられていながらも、この手の小説としてはとても「大人」な感じがするつくりになっている。(まあ単純に、登場する高校生たちの雰囲気や衒学的なオタクっぷりが、イマドキっぽくなくて、栗本薫とかを思わせる感じで「古い?っていうこともあるのだけど。ぼくはこの新城カズマという人について何も知らないけど、実際にある程度は歳いってる人なのではないか。)
●この本が『サマー/タイム/トラベラー(1)』であること、つまり「(2)」につづいていて一冊では完結していないことを、ぼくは全体の四分の三くらいまで読んだことろではじめて気付いた。で、多分つづきも買って読むだろうと思えるくらいには、この小説は面白かった。