『サマー/タイム/トラベラー(2)』(新城カズマ)

●『サマー/タイム/トラベラー(2)』(新城カズマ)は、予想していたよりは面白かった。この小説は、特別な人物(自分は特別でありたいという肥大した自意識を持った人物)が、普通の人(世の中に存在する無数の人々の内の一人)になってゆくという過程の話で、つまりそれが青春小説というものなのだろう。だからこの小説の「あり得ない」ほど大げさなキャラクター設定は、決して意味のないものではなかったのだった。衒学的で壮大な話を語り合う特別な人たち(子供たち)は、目の前のどうしようもない現実、例えば地方都市に蔓延する閉塞感に対しては全く無力であり、自らが語る「壮大な話」のなかでのみ全能感を楽しむ。彼らの宇宙論は、彼らのプロジェクトと同様、彼らが軽蔑する大人たちによって守られた範囲のなかでのみ遊戯として成立し、彼らはその遊戯空間のなかでのみ、特別な天才であり、世界を(見下すように)鳥瞰することが出来る。この空間は(ぼくの趣味ではないけど)とても幸福なもので、それ自体として素晴らしい。(このような領域を、遊戯を、現実的ではなく、想像的なものでしかないと批判するような人を、ぼくは軽蔑する。人はそういう領域でこそ「生きる」のだと思う。)ただ、その内部での全能感は、たった一人の(浮き世を渡る)下らないチンピラの「にらみ」を前にすくみ上がってしまうしかないような、脆弱なものなのだ。この小説の登場人物たちが皆、天才であったり、特別な存在であったりすることは少しもリアルではなく、それはたんに、この年齢にありがちな(と言うか、必然的な)肥大化した自意識を形象化したものに過ぎないが、主人公の卓人の家の前に、(相次ぐ放火が招いた地域通貨の破綻によって)突然にチンピラ風の男が「ぬっ」と現れる恐ろしさこそが、この少年にとって何よりもリアルな、避けがたい「外的な現実」なのだ。(それは、市の財政のダーティーな側面をハッキングによって「知っている」というだけとは、全く異なる事柄なのだ。)あるいは、天才少年少女たちによって計画された「狂言誘拐事件」の計画の「完璧さ」が、たかだか地方の名士のダーティーな手下でしかない(主人公によってその卑屈さが軽蔑されているような)男の暴力的迫力の前で、ぐらっと揺らいでしまいそうになる瞬間こそが、どうしようもなくリアルなのだ。このようなリアルさに触れてしまうことで、幸福な遊戯空間は破綻してしまうしかないし、天才たちの衒学的な会話は、間抜けたちの滑稽な活劇にかわるしかないし、特別な少年少女たちは、他の誰とも大してかわらない普通の大人になってゆくしかなくなる。これは不可避なことであるが、きわめて痛切なことでもある。(さらに、この小説の説得力は、このような青春小説としての側面だけでなく、彼らがそこで生きるしかないような、寂れつつある地方都市のあり様を、とても具体的に、そして立体的に描きだしているという点に支えられている。)
●ただ、この小説で一番気になったのは、ヒロインである悠有の存在のさせ方で、このような「萌えキャラ」によって読者の「感情」を引っ張ったり揺さぶったりするのは、まあ、よいとしても、「少女」の存在を、世界や未来の「希望」の隠喩として何の捻りもなく使うというのは、やはり安易であるように思う。このヒロインただ一人だけが、最後まで無傷で特別なままっていうのは、ちょっと納得できないのだった。