ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』『アリックスの写真』

澁谷ユーロスペースで、ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』『アリックスの写真』。

『ぼくの小さな恋人たち』は、ほんとうに素晴らしい。あの坂道を下る自転車、カフェの前の中途半端に開けた空間、少年の職場の前の、あの狭苦しくてやや上り坂になっていて、その先へ抜けている道、隣村のはずれで、サリナスへ行くという少女たちをナンパした時に吹いているあの風。これらはもう「映画的」としか言い様のない形象を獲得していて、しかもこの「映画的」というのは、決して過去の映画のレファランスからくるものではなく、おそらくユスターシュ自身の過去の記憶を要素として、それを構成し構築することによって得ることの出来た「映画的な形象」なのだと思う。つまり、「映画」というあらかじめ到達すべきものとしての絶対の目標がある訳ではなくて、自分の構築したもの、つくり出したものの強度によって、そこに初めて「映画」という形象が現れ、その強度、あるいは形象によってこそ、「映画」という概念は支えられるのだ、というようなものだ。だからこの映画を、ヨーロッパ映画の流れのなかに伝統的にある、「思春期映画」とでも呼ぶべきものと比べて、その偏差についてどうこう言うことには、大した意味はない。この作品は、他の作品との比較ではなくて、この作品自身として語られなければならないようなものなのだと思う。

この映画で、多分にユスターシュ本人と重ねられていると思われるダニエルと名付けられた少年は、この少年自身が「主役」として描かれるというよりは、この映画の世界そのものを感受している身体として、映画を支える基底的な存在として登場している。つまりこの映画は、ダニエルによって感受された「感覚」によって構成されている。ダニエルがすべての場面に居合わせていなければならないのは、映画がダニエルを追っている(描いている)からではなくて、ダニエルによって支えられているからなのだ。しかし当然のことながら、映画においては基本的に一人称というのはあり得ないので、その「感覚」は三人称として構成=構築し直されなければならず、つまり画面のなかに常に、それを感覚している存在であるダニエルが写り込んでいる、ということになる。この、一人称が常に三人称として構成し直され、その世界を感受している身体そのものが、構成し直された世界ではその世界の一部分として、その内部に対象として写り込んでしまっている、という感覚が、ここで言う「映画的」な、という感覚なのだと思う。この非-求心的な拡散する感覚こそが「映画」なのだ。

この映画は、ダニエルの「感覚」を描く(と言うか、感覚を要素として構成されている)ものであるから、ダニエルの成長や性の目覚めといった「物語」が語られている訳ではないことは勿論だが、彼の感情や思考が描かれている訳でもないので、彼の表情はいつもニュートラルな掴みどころのないものに保たれているし、映画の流れも常に淡々としていて、起伏がない。母親に引き取られた後の彼の境遇は、かなり悲劇的なものだといえるはずなのだけど、ここでは物語としての悲劇が語られないだけでなく、感情としての悲劇も語られることがない。(人物たちの動きはまるで機械仕掛けのように生気がない。だが、その身体の表情は、ヤバいほど生々しい。しかし、それは物語とは全く関係がない。)なにしろダニエルは状況に流されるばかりで、自分の意志を表明したり、自分の意志で行動したりすることが全くと言っていいほどないのだから、彼が何を考えているかなど、全く分らない。彼が自分の意志でする行動といったら、人込みに紛れておずおずと女の子の身体に触ることくらいのものなのだ。

だからダニエルという存在が重要なのは、あくまでも感覚受容体=身体としてであり、世界のなかを駆け抜けて、世界を構成する要素を拾い上げるシフターとしてなのだ。重要なのは彼の悲劇的な境遇やその感情なのではなく、彼によって感受され、映画によって三人称的なものとして構築された形象、つまり、男たちのたむろするカフェの空間であり、その前を横切って性的な記号を振りまく女たちの形象であり(窓に写った女たちを追う、あの素晴らしい横移動。)、彼の職場の前の坂道であり、そこで毎晩のように男と抱擁し合う女の形象であり、並木道をまるで幽霊のように行き来する男女たちであり、そこでキスをする度に帽子を落とすカップルであり、それを見ているユスターシュであり、バザーの雑踏や少女たちのコーラスであり、村はずれの畑の道を吹き抜けるみだらな風であり、坂道を転がるように下ってゆく三人乗りの自転車の運動であり、ニエーヴルという村であり、ナルボンヌという地方都市であるような、映画的な形象なのだ。つまりこの映画は、過去の記憶の物語化でもなく、記憶の再現ですらなくて、感覚的な記憶を構成要素として、スクリーンにあらわれる映画的な形象によって、それ自体として記憶と「等価」なものを出現させてしまおう、という試みなのだと思う。感覚の記憶を再現する映像なのではなくて、感覚の記憶と等価であるような映像の「かたち」を構成する探究。

この映画は基本的に、上記のような形象がいくつも羅列されることによって出来ていて、物語のような起伏や流れというものがほとんど感じられない。ある形象があらわれ、消えてゆき、また別の形象があらわれる、という風にただ時間に沿って並べられているだけで、それらが構造化されるという気配が希薄なのだ。複数の異なる形象が、平面的に並べられ、それらのただ並列されているだけの形象たちを、1本の映画作品として纏めているのは、唯一ダニエルと名付けられた少年の身体のみなのだと思える。そしてダニエルの感覚受容体としての身体は、世界をあからさまに性的に色づけるだろう。しかしここで世界を性的に色づけるダニエルという身体は、同時に、世界が発している性的な表情に初めて直面して、初々しく震えているような身体でもあるのだった。