ダニエル・シュミットの『ベレジーナ』

澁谷のユーロスペースで、ダニエル・シュミットの『ベレジーナ』。『ベレジーナ』が傑作であるということは、直接的にも間接的にもいろいろと聞いていて、観る前からかなりの作品だろうと予想し、期待もしていた訳だけど、そういうこちらの予想などあっさり裏切ってしまう程に、これは本当にあっけにとられるしかないような傑作なのだった。本当の傑作というものは、こんなにも何げなく、当たり前の表情であらわれるものなのか。実を言うと、シュミットで傑作と言ったって、今どきそんな「傑作」を観せられたってなあ、という気持ちがないではなかったのだけど、そんな「傑作」よりも、ヴェンダースの失敗作の方がずっと刺激的なのではないだろうか、なんて考えがなかった訳ではないのだけど、傑作というのは、完成度が高いとかテンションが高いとかではなくて、ごくあっけらかんと、ただもうこれ以外にあり得ないと言うような形で「傑作」なのだ。こんな映画が現代に登場してしまって良いのだろうかと思えるくらい「完璧な洗練」を獲得していながら、1999年にしか制作され得なかっただろうという「現代性」も同時に兼ね備えている。

この映画の素晴らしさについて、どのように言ったら良いのかよく分らないのだ。確かに、多くの人が言っているように、ルビッチを想起させるような、洗練を極めたコメディである訳だけど、だからと言って、古典を規範とした、古典のような完璧なフォルムへの回帰を目指したようなフィルムではなくて、例えば主演のエレナ・バノーヴァの魅力は、容姿も含めてその現代的な感じにあるのだし、出てくる老人たちの何とも言えない生き生きとした表情などは、『トスカの接吻』の監督だからこそ捉えられたものだと言えるし、この作品そのものも、ただスイスのみならず、現代のヨーロッパの姿に対する強い批評性を持ってもいるのだし、誰も本気にはしないようなとんでもない結末で平然と映画を締めくくるところなどは、いかがわしさの権化とも言えるシュミットならではのことだと言えるのだ。反復は常に差異として出現する。この、ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』が、いきなり1999年に転生してきたような映画は、しかし真面目な生徒がお手本に忠実に(あるいは、お手本に批評的な距離を導入しつつ)作り上げたようなものとは程遠くて(真面目な生徒というには齢をとりすぎてもいるし、何よりシュミットが真面目な生徒であるはずはないのだが)、まるで中空からいきなり湧いて出てきたかのような唐突な完成度によって出来ているのだった。(勿論、実際には数々のお手本があることは観れば分るのだが、それでもなお、「いきなり」な感じなのだ。)

映画を観ることの「驚き」とは、つまりこういうことだったのだ、その昔、映画とは「荒唐無稽の反記号」だと、さる偉大な批評家が言っていたことは勿論憶えている訳だが、しかし今どきそんなことを改めて言い出すのは、何とも反動的で下らないことだという気持ちも持っているのだけど、それでもこんな映画に突き当たると、「荒唐無稽なものへの驚き」とか、「機械が透明に作動してしまうことの驚き」とか、そんな風な言葉しか見つからないのだった。しかもその「驚き」が、シュミット風の濃さにおいてではなく、いかにも堂々とした巨匠の仕事というような、あっさりとした単純さによって生み出されていることが、さらなる驚きなのだ。シュミットがあくまでシュミット自身でありながら、「シュミット」という作家名を軽々と裏切っている、その何とも人をくった、冴えた感覚が、この映画の隅々にまで行き渡っていると感じられる。勿論その裏切りは、あらかじめ「シュミットの観客」という人たちを想定してのことではなくて、もっと開かれていて自由なものに向かっているのだ。

パンフレットには、青山真治氏による、まるで80年代に逆行してしまったかのような、ベタベタにシネフィル調の文章が載っている。《全体にエルンスト・ルビッチ的なシュールレアリズムの流れを汲む細部を絡めつつ、それをブニュエル的毒気で受け、スタージェス的な喧噪とともに転回し、結末はいかにもシュミット的な方法でつける。これが映画『ベレジーナ』である。》確かにこの映画の凄さは、このようにして凄い名前を並べることでしか言い様がないのだし、これらの流れを、ワイルダー=キャプラ的な、土臭い、ヒューマニズムに対する、都会的で畸形的なものの闘争だと位置づけるもの正しいように思う。しかしこのような固有名の羅列は、ヘタをすると「映画的な教養」による、正しい映画史上の位置付け(血統書)のようにも、見えてしまいがちだろう。しかし青山氏のやろうとしていることはそういうことではなくて、『ベレジーナ』という映画において作動している様々な機械=回路を、分析的に取り出してみて、その取り出した機械=回路に付けられた仮の名として、「ルビッチ的」とか「ブニュエル的」とか言うことができる、とのことだろう。しかし、その機械=回路に「ルビッチ的」とか「ブニュエル的」とか名付けられると言うことは、過去にルビッチとかブニュエルとかいう作家が存在したということであり、彼らの存在を尊重するということでもあり、それはつまり、映画には歴史があるということを尊重することでもある。正しい映画的な教養による血統書を尊重するということと、過去に偉大な作家あるいは作品が存在したという事実を尊重することとでは、微妙ではあるがはっきりとした違いがある。シュミットとは、何よりも過去を尊重することで映画をつくってきた作家であるのだが、その「過去」とは、正しい血統書などとは何の関係もないところに突如として出現するものであるところが貴重なのだ。

現代に突如として現れたルビッチ的な洗練が、手垢にまみれた現代スイスのクリシェの真ん中を堂々と横断してゆき、そのなかから、エレナ・バノーヴァのような人物のエロや、嘘と欺瞞がそのまま凝固してしまったような存在でありながらも、同時に魅力的でもある数々の妖怪的な老人たちの徘徊する姿が浮かび上がってくる。そして終盤、ほとんど幽霊と化してしまったような人物たちによる、過去の彼方に埋め込まれてしまっていた遺物のようなローテク機械が、突然嘘のように透明に作動する様(チャールズ・ブロンソンの出ていた『テレフォン』という映画を、ちょっとだけ思い出したのだが)を映し出す映画は、懐古的であるのとは全く違った意味での、過去への尊重と恐れとをはっきりと示していて、痛快でありながらも空恐ろしい、身震いを感じるような映画=機械の作動ぶりなのだった。