『佐藤信介ワールド・正門前行/月島狂奏』をビデオで

佐藤信介ワールド・正門前行/月島狂奏』をビデオで。これを観てみようと思ったのは、やはりどこかで『ひまわり』(5/7の日記参照)という映画が気になっていたからで(佐藤信介という人は『ひまわり』の脚本家でもある)、観て思ったのは、『ひまわり』の面白いところは、ほとんど脚本家である佐藤信介に由来していたのだ、ということだった。

『月島狂奏』(16?/36分/95年)は、才能を感じさせる、とてもいい感じの映画。月島という土地、古い下町の建物のなかに高層マンションがニョキニョキと建ち、バブル崩壊で虫食いのように空き地が点在する土地の、夜から朝へと明けてゆく薄明るい湿った空気、夜露で湿った道路を歩く人や自転車、夏の蒸し暑さ。そのような舞台で、不意に父親が入院してしまった家族と、その周囲の人物たちの群像劇を、まるでエドワード・ヤンの初期を思わせるような乾いた情感と端正なショットの構成で綴ってゆく。

『正門前行』(16?/66分/97年)は、『月島狂奏』で明確に才能を示した作家の、もはや才能を示すためだけに映画をつくっても意味がないという認識がはっきりと感じられる映画。映画を構成することで何らかの思考をくみ立てようとする意志によってつくられている。と言うか、観る者に思考をするように「誘う」ようにつくられている。ここでは『月島狂奏』のような「普通にいい感じ」よりも、むしろ才気ばしった「狙い」が先にみえてくるし、端正につくり込まれた細部もちょっとつくり過ぎという感じにさえみえてしまう。勿論それは非難されるべきことではなく、この作家の、自分の才能だけに安住することのない大きさを感じさせるものだ。

これらの映画を制作したアングルピクチャーズという会社(?)のHPに、西野基久という人が書いた『正門前行』の批評(http://angle.on-line.ne.jp/Nisino.html)が載っていて、それをざっと読んだのだけど、ぼくは全く同意出来なかった。ここには、映画を「知的」に読もうとするときに陥りがちな罠が示されているように思うので、申し訳ないけど引用しながら反論することを通じて、この映画について少し考えてみたい。『「リアル」といういかがわしさ』と台されたこの文章は、次のように始まる。

《 被害者不在の事件はいかに表象可能か。『正門前行』に課せられたのはこのような問いである。これにたいして主人公の神崎は、いかに映画をつくるかという問いを重ね合わせる。

物語は「ブレスレット盗難事件」の真相解明が基調となり、そのほとんどが事件を捜査する神崎の視点から描かれている。事件の被害者である小野寺は登場しない。だから、その真相が小野寺の口から明らかにされることはない。真相は隠され、前景化されるのは真相解明のプロセス自体だ。》

まずこの前提から違っているように思う。『正門前行』は確かに「ブレスレット盗難事件」を巡って展開されるのだが、問題になっているのは、被害者不在の事件をいかに表象するかということではなく、映画のなかで実際に喋られている「ブレスレット盗難事件」についての「噂=言説」そのものの方なのだ。この映画には事件の当事者である小野寺という女性は画面に一度も現れない。しかしこの当事者の不在は、別に大きな意味をもってはいない。(確かに『月島狂奏』ではまだ、不在の父親が、説話的な次元で強い磁力を発してはいるのだが。)何かが不在であると、すぐにそこに重大な意味があると思ってしまうのは、「知的」な思考の陥りがちな罠だと思う。この映画で描かれているのは、あくまで画面に登場してくる人物たちであり、彼らが噂=言説をどのように伝達し、それをどのように変質させ、それによって行動や認識がどのように影響をうけるか、ということなのだ。(どこかに真実としてある「ブレスレット盗難事件」をどのようにして表象するか、などということは少しも問題になっていない。)この映画の主人公は確かに「ブレスレット盗難事件」をネタにして映画をつくろうとしている神崎という男で、彼はそのために探偵の真似事もするのだが、この映画のもう一方の流れとして、神崎の映画の資金を暢達するために(神崎に内緒で)友人たちを尋ね歩く恭子という存在がいるのだ。映画はこの2人が一緒に朝食をとりながら会話しているシーンで始まり、その後別れた2人は、映画のラストに近くなって合流するまで、一度も交錯することがない。つまりこの映画には2つの同時に進行する流れがあり、「ブレスレット盗難事件」はその片方の流れにしか関係しない(最後に合流するところで初めて関係する)。まあ、神崎の方の流れが映画の主流となってはいるのだが、その神崎にしたところで、「ブレスレット盗難事件」の語り手=探偵という役割を、途中からはっきりと降りてしまうのだ。この映画は基本的に神崎/恭子というカップルの映画であり、この2人がそれぞれの意志でそれぞれの目的をもって別々に行動するにも関わらず、2人とも「人々を尋ね歩く」という同じ行動(身ぶり)を、お互いに知らないまましてしまっているというところが面白くもあるのだ。

《神崎は自作自演によって、この空白(被害者が不在であるということ)を狙いすましたように利用する。この点で『正門前行』は自己完結している。だがその反面、そこに置かれた事件の解釈(という行為)がきわめてうつろいやすく、とりあえずのものにすぎないことを、われわれは知っている。実際、この映画では登場人物がことごとく無責任な噂話を披露する。空白が空白として残る(在る)ことを示すためにのみ、その埋め合わせ作業は行われているかのようである。それどころか、この映画自体も、きたるべき本編を見ることの欲望をつかのま充足させるもの、つまり予告編であるといえるのである。『正門前行』は未だない映画に連結しているのだ。》

この映画で、登場人物たちがことごとく無責任な噂話をするのは、決して「空白が空白として残ることを示す」ための埋め合わせなどではなくて、事実かどうかも分らないいい加減な噂を、誰からどのように受け取り、その噂によってどのような行動が誘発されるか、あるいはその噂の解釈がどのように変化してゆくのか、という事が、登場人物たちの置かれた状況やその人間関係などを、あるいは他人に対する見方のようなのを、顕在化させるからだろう。つまり「ブレスレット盗難事件」を巡る噂話は、卒業制作を控えた美術大学の内部の人間同士の関係を顕在化し、また動かしてもゆく装置として採用されているのだ。第一、主人公の神崎がこの事件の捜査に乗り出すのは、映画のネタを得るという以上に、この事件の犯人であると噂されている人物(松永)が、恋人である恭子の元カレであり、普段からあまり良い噂を聞かない人物であるからという要因の方が大きいのだ。神崎にとっての興味は、はじめから「ブレスレット盗難事件」そのものではなく、松永という人物に向けられている。(不在の小野寺などどうでもいいのだ。)当初、事件の噂について懐疑的だった神崎が、松永の悪い噂を幾つも聞かされるうちに、すっかり松永が犯人だと思い込むようになるのだが、この変化(判断の混乱)の原因の1つに、恋人である恭子に対する感情があることは疑いようがない。こういう部分をみないで「空白」にばかり目をとられていると、この映画にとても繊細に仕掛けられている、人物同士の関係の微妙なズレや呼吸のようなものを、平気で見逃してしまいかねない。ましてや《この映画自体も、きたるべき本編を見ることの欲望をつかのま充足させるもの、つまり予告編であるといえるのである》などと言う考えは理解し難い。映画というのは、具体的に目に見えている映像であり、聞こえている音響であって、あらゆる思考はそこからはじまるのだと思う。

《最終場面、神崎にブレスレットが手渡され、映画が完結したと思われた瞬間、事件の他の解釈が発生する。(掛井と藤城は、神崎から奪ったメモを分析することによって、別の物語を再生させる意図を明らかにしている。)いいかえれば、映画『正門前行』の正当な出自が明かされ、ひとつの全体をなそうとした瞬間、他の場所で解消不能な分裂が生成されるのだ。事件の複数の解釈を束ねているのはブレスレットであり、それを媒介に登場人物たちの行為(解釈という)は交換されている。だが、われわれとしては、唐突に出現したブレスレットによって、この事件が代理されうるということよりも、まさにそのことによって、相互に矛盾する証言が同等に扱われ、それらが共存するようにみえる場所さえ与えられてしまうことに注目すべきだろう。ブレスレットは事件を表象しつつ隠蔽する装置なのだ。》

《相互に矛盾する証言が同等に扱われ、それらが共存するようにみえる場所》は、唐突に出現したブレスレットによってもたらされる訳ではないし、《事件の他の解釈》は、映画が完結したと思われる瞬間に発生するのでもない。事件の他の解釈は、映画が開始された当初から掛井と藤城というもう一組の「探偵」から何度も提出されているし、恭子の友人の口からも提出されている。つまりこの映画は始めから《相互に矛盾する証言が同等に扱われ、それらが共存するようにみえる場所》としてあるのだ。そして、映画のラストに神崎の手にブレスレットが舞い込んだ後でも、事件の真相は曖昧なままで宙吊りにされている。(ブレスレットは何ら特権的なオブジェクトではない。)つまり「ブレスレット盗難事件」そのものについては、この映画の始めも終りも大して変わらず、よく分らないままなのだ。しかしそれは決して「表象の不可能性」などを示しているのではなくて、たんにこの映画では誰も本気で「ブレスレット盗難事件」について探ろうとなどしていないという事実を示しているに過ぎない。ただ、それぞれの人物が自分勝手な思惑や成りゆきから、噂を受け取り、それによって行動し、また誰かに伝達しているだけなのだ。それらの噂の流れを、超越的に俯瞰して捉えられる人物などどこにも存在しない。だからそれぞれの人物が、まるで松永がしているビリヤードの玉のように、バラバラに行動し、偶然にあっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、予期せぬ方向へ動いていってしまうのだ。人は全てを知ることは出来ず、自分の知っていること(や利害や感情)から物事を判断するしかない。主人公の神崎は、当初事件の無責任な噂について冷静で真っ当な判断をしてたのだが、松永が女子校生と歩いてるのを目撃して疑惑を感じ、調べてゆくうちに松永の悪い噂ばかりを聞くことになり、いつの間にかすっかり松永を犯人だと思い込むのだが、実際に松永と会ってみると以外にいい奴で、彼の話は噂とは全く違っていて、松永との間に友情すら芽生えかけるのだけど、ラストの女子校生とブレスレットの出現で、再び彼に対する信頼は揺らぎ疑いが生じてしまう。《映画『正門前行』の正当な出自が明かされ、ひとつの全体をなそうとした瞬間、他の場所で解消不能な分裂が生成される》のではない。解消不能な分裂は常に至るところで生成されつづけているのだ。我々の住んでいる世界では、解釈はいつも暫定的にしかありえず、ある解釈の成立と同時に解消不能な分裂は必ず生まれてしまうのだ。過去に起こった(知り得た)事柄を分析することである解釈を構成することはできるが、それは常に未来に起こる(知り得る)出来事によって書き換えられるという可能性とともにあるしかないのだ。そのような世界のなかに存在している人物たちが、それぞれの暫定的な解釈に基づいて行動し、それらが偶然にぶつかり、互いに影響し合いながらも、バラバラに動いてゆくのがこの社会という場所なのだ。(神崎と恭子との恋愛も、そのような社会のなかで「発生」しているのだ。)映画『正門前行』は、そのような世界像をたぐい稀な繊細さ周到さで構成しようとしているように思う。この映画における「リアルさ」とは、つまりそういうことなのだ。