子供のかん高い奇声

子供がしばしばかん高い奇声を発するのは、おそらくそれによって自分の身体の存在を確認しているのではないかと思える。声が喉を震わし、脳天から身体を突き抜けてゆくその感覚を感じることで、自分自身の身体像を、その運動性を、視覚的なものとは違った形で把握しようとしている、と言うか。そしてそれは、多分に性的なものと同質の身体的な快感をともなうもので、だからしばしば行為は、親などにこっぴどく叱られるまで、本来の目的を超えて歯止めなく増長していってしまう。つまりそれは、もともと外に対する働きかけ、親に対して注目してほしいという表現として発せられている行為ではなく、多分に自己完結的なものであるようにみえる。しかし、それは赤ん坊が泣くような、全くの「自然」に近い行為とも違って、子供は独自の狡猾さをもってもいる訳で、それが結果として周囲の他人の注目を集めてしまう、という事実も充分に知ってはいるのだ。子供の発する奇声、あるいは中学生とか高校生くらいのガキが必要以上にデカい声で笑ったり喋ったりしている声が、妙に神経に障ったり、苛立たしい感情を喚起したりするのは、そのような声の、自然でも自己完結でも表現でもないような独自の中途半端さのなかに、どうしても狡猾さや媚びのようなもののにおいを感じとってしまうからではないだろうか。

と、こんなことを考えたのは、土曜日の夜の駅前の至る所に陣取ってはギターをかき鳴らして歌っている奴らの間を通り抜けながら歩いている時で、風がなくてへんに生暖かいムシムシする空気とともに彼らの身体から切り離されることがないままで中空に漂い出てくるような甘ったれた声が鬱陶しく身体に纏わりつく感覚に促されてのことだ。