02/02/21

●夜遅く、NHKで新日曜美術館の再放送でバルテュスをやっていた。バルテュスと言うと必ず少女とかエロスとか言うことになっているのだけど、ぼくがまず思うのはクールベとの関係で、少なくとも初期のバルテュスの創造性の多くの部分は、1930年代において、シュールレアリスム(反モダニズム)の流行に対してクールベ的なリアリズム(セザンヌ=マティスという流れが主流となる以前のモダニズム)を置いたところにあると言うべきだろう。クールベ的なリアリズムという言い方は実は正確ではなくて、明らかなクールベへの言及であり、クールベの引用なのだが。1930年代と言えば一方でピカソマティスのような巨匠がまだバリバリと仕事をしていた時期であり、もう一方で新しい運動としてのシュールレアリスムが盛り上がっていた訳だが、そのような時期にクールベというのは微妙な「古さ」があって、恐らく正統な古典と言うにはまだちょっと「新しく」て、一番言及されにくく、忘れられて埋もれてしまいがちな、半端な「古さ」だったのではないだろうかと推測する。(バルテュスクールベの関係については、「みずえ」の1984年春のバルテュス特集に掲載されている、阿部良雄氏の優れた文章があるので参照されたい。)
勿論バルテュスという画家の全てをクールベとの関係だけで割り切ることなど出来ない。むしろバルテュスの本来の魅力は、クールベなどの古典への参照/引用という知的=批評的な身ぶりにあると言うよりも、その素人っぽいところ、最良の素人画家と言うべき側面にあるのだと思われる。クールベ風のリアリズムと言っても、クールベのような完璧なテクニックがある訳ではなく、どこか「甘い」感じがあって、そこにこそバルテュスの固有の良さがあらわれている。それは、バルテュスの作品中で最も魅力的だと思われるものが、14歳の時に描かれた『ミツ』の連作ではないかと思われるところからしても明らかだろう。たまたま母親の恋人が高名な詩人であったことから日の目を見ることになった、別にどうということもないように見えもするこれらの幼い絵に、ある抗しがたい魅力があることは否定できない。20代のバルテュスの描いた、いかにも若者らしい底の浅い野心が見え見えな絵(例えば『ギターのレッスン』などは、少女の身体=ギターという、これ以上ないと言うほど陳腐な比喩によって出来ているスキャンダル狙いの絵であるだろう。それ以上の生々しい魅力が全く無いという訳ではないにしろ、これではあまりにバカバカしい。)などよりも、『ミツ』のやわらかくも稚拙なタッチの方がどれほど良いか知れない。
番組は、絵を照らすにはライトの光では強すぎるからライトを消せ、と語気荒く言うバルテュスの姿で始まったのだった。たしかにバルテュスの絵のなかには強い光は存在しない。風景はいつも、厚い雲を通過してきた灰色の光で満たされているし、室内の空間もどこが一箇所に強い光が当てられていることはない。しかしぼくは、バルテュスは決して「光」の画家などではないと思う。バルテュスにとって重要なのは、薄暗い場所に繊細に射してくる光であると言うよりも、その光によって物がじわじわと、ゆっくり見えてくるという、「じわじわ」「ゆっくり」という時間の質の方なのではないかと感じるのだ。この「時間」が重要だからこそ、物が一瞬にして浮かびあがり、一望のもとにさらされてしまうような、はっきりとした強い光は駄目なのだ。特に晩年のバルテュスに顕著に見られることだと思うのだが、あまりにもじっくりと時間をかけて塗り重ねられた油絵具の層は、しばしば時間をかけすぎることで「光」を捉えそこなっている。(バルテュスが欲していたのは、ゆるやかな光を絵のなかに捉えるということではなくて、ゆるやかな光のなかで自分の絵を、塗り重ねられた絵具の層を観る、ということだったのではないか、とさえ思える。まあ、視力が弱くなっているという、単純にフィジカルな問題もあるだろうが。)重要なのは、光の状態そのものであるのではなく、「じわじわ」「じっくり」という時間の流れを可能にしてくれる、アトリエという空間の存在の方なのではないのだろうか。自分にとって親しい物たちに囲まれていて、人生の多くの時間をそこで費やすことのできる、ほとんど自分の身体の延長のようなものであり、それと同時に雑多な情報が乱舞する外界から自分を保護してくれる壁のようなものでもあるアトリエという空間と、その空間によって可能になる時間の質こそが、問題なのだろう。そのような場所では、光の粒子もその震動の速度を極端に緩慢にし、ごく弱い光の粒はまるで触れることができる塵のような物質となってアトリエを満たす。そこで光とまるで舐めるように触れ合い、絵具の層をいつまででも重ねてゆく。そこでは優れた画家にとって必要な「運動神経」は失われてしまっているだろう。ただ、静止してしまったような時間のなかでのたうつ触覚的な欲望の発露があるばかりだ。バルテュスの絵画は、そのような時間のなかで徐々に出来上がってゆく「何ものか」であって、そこには通常の意味での「時間」が存在しない。