フィリップ・ド・ブロカ『まぼろしの市街戦』

●いまさらながらという感じで、フィリップ・ド・ブロカまぼろしの市街戦』(1967年)をDVDで初めて観た。こういうものは、とても強く反応する人と、全く反応しない人とにはっきり分かれるのだろう。そして、強く反応してしまう人は、どこか甘っちょろさの消えない、(現実を直視することを恐れる)ロマンチストだと非難されても否定することは出来ないだろう。こんな映画に惹かれる奴は、ぼんやりした、浮世離れした、使えない奴だろう。ぼくは、最初の方こそ、状況説明のための描写がもたついていてかったるいなあ、とか、シネマスコープの空間があまり上手く使われていないのではないか、とか、精神病者をこのように「美しいもの」として描くのは現在では通用しないだろう、などと冷静に観ていたものの、途中からはぐっと引き込まれてしまい、とても冷静ではいられず、(おとぎ話に過ぎないと分かってはいても)絶対に破綻するに決まっている、ほんの一瞬の真空地帯に出現したこのあまりに美しい「幻影」の行方から目をはなすことが出来なくなり、幸福感とともに胸がかきむしられるような感情に襲われ、この「幻影」がほんの少しでも長くつづいて欲しいと願いつつ、(フィクションであるのに)どのような形で破綻を迎えるのかを何がなんでも見届けなくては気が済まない、という気持ちになっているのだった。冷静に考えれは、文化人類学的な言説にぴったりとハマってしまうような退屈な構図の上に成り立っている、あくまで心を慰撫するおとぎ話に留まる、リアリティにまで迫ることのない作品だと言うべきだろう。(おそらく、監督のフィリップ・ド・ブロカにしても、脚本のダニエル・ブーランジェにしても、このような「幻影」に大して思い入れがあるわけではなく、ただ「時代の気分」を反映した映画をつくろうと考えただけなのだと思う。)だが、それを知りつつも、この映画は素晴らしいと言ってしまう「甘さ」を自分に許しても良いのではないかと思わせるくらいに、この「幻影」は美しいのだ。
●正直言って、この映画に強く揺さぶられてしまうような自分の「甘さ」が、肯定すべきものなのか、否定すべきものなのかは、確信が持てない。ただ、出来れば、評判のカルト・ムービーとしてではなく、平日の昼間たまたま点けたテレビから流れてきたもの(そしてそのまま消えてしまうもの)として、評判も予備知識もなしに、この映画に出会えればよかったと思う。もしそうならば、幻影のようにうつくしいこの映画を、まさに白昼の幻影として保留なく肯定できたのにと思う。(そのような幸福な出会いを夢想すること自体が、どうしようもなく甘っちょろいとも言えるのだが。)