瀬々敬久『ユダ』(がどうして面白くないか)について

瀬々敬久『ユダ』(がどうして面白くないか)について、もうちょっと考えてみる。
●『ユダ』という映画は基本的に二つの主観の交錯(と、その交錯に場を与える支える三つめの視点)によって出来ている。つまり、二人の人物によってそれぞれに捉えられた「ユダ」が語られる。一つはルポライター(ビデオジャーナリスト?)の男性の主観であり、もう一つは家庭を捨てた女性の主観である。主観といっても、男性の視点は厳密には男性の「見た」ものとしてではなく、男性が撮影したビデオ映像として示されており、それは男性の視点と完全に一致するものではない。(男性の主観はナレーションによって辛うじて確保されている。)対して、女性は、自分が経験した出来事を主観的に物語として構成し直して語っている。だからそれは、女性が語っている(女性の主観)であると同時に、物語として(映像としても)三人称化されている。つまり、男性がユダを追いかけつつ撮った「映像」(そこには男性のカメラを使ってユダが撮った映像さえ紛れ込んでしまうのだが)と、ユダをめぐる、物語化された記憶である女性の語りとでは、本来まったく質が異なるもののはずだろう。男性の撮った「映像」は、男性のナレーションによって補完されているとはいえ、たんなる映像であり、そこに捉えられているのはどのような解釈(主観)とも完全には一致しない現実=風景の断片としての「映像」でしかない。それは、物語として語られる、女性とユダとタイチのパートとは次元がことなるはずだ。この、決して重ならないはずの二つの流れの「違い」がはっきりと「違い」として示されていれば、この映画はもうすこし面白いものになったのではないだろうか。しかし、巧みな編集と、演出の不徹底によって、この二つの部分が滑らかに(曖昧に)繋がってしまっていることが、この映画を混乱させている。
●ユダは、男性であると同時に女性であり、あるいは、そのどちらでもない存在である。そんなユダは、16歳の女の子の嘘を真に受け「ふじいかおり」という架空の人物を「救い出」さねばならないという使命感によって彼女を探している。ユダが、嘘であることが明らかな「話」を真に受けなければならなかったのは、自らの空虚を埋めるための、何かしらの「行動の目標」が必要だったからとしか思えない。むしろ「ふじいかおり」が明らかに嘘だからこそ、ユダにとってそのような「行動の目標」が有効であり得た。同様に、ジャーナリストの男性や、家庭を捨てた女性もまた、それぞれの空虚を埋めるための幻影として「ユダ」という存在を必要とした。男性にとっては、ユダが男性でもあり女性でもあるという存在のあり様が、自らの疲弊したアイデンティティーを崩し、刷新させてくれるかのような幻影として、女性にとっては、自分を縛っている様々な束縛から解放してくれるような幻影として、ユダという存在があらわれたのだろう。ユダにとっての「ふじいかおり」と同様に、男性や女性にとってのユダは、自らの空虚を映し出すスクリーンのような存在である。そして、男性と女性とは、ユダという空虚な幻影(ユダは、いまここでは不在であること)によって、互いの空虚を媒介として関係することが出来る。(だから、男性や女性にとって、ユダの探している「ふじいかおり」が架空の存在だと知ることは、そのまま、ユダもまた同様に、架空の存在でしかないことを知ることでもある。)ユダという存在は、この映画ではあくまで否定的な(否定を介する)媒介としてあり(つまり、男性や女性の空虚を映し出すものとしてあり)、その時、それ自身としてあるユダの身体のあり様はほとんど問題になっていないように思う。
●この映画は、以上のような図式を、かなりまわりくどい(まどろっこしい)やり方で示している。互いに空虚(否定的媒介)を通してしか関係できない人物の関係を描くやり方が、昔の前衛映画のような古くさいやり方であることはさておき、このような関係を描き出すことで、それを成立させる(どの人物をも等しく貫く)基底的な場としての「現在」の手触りを映画のなかに招き入れることが、おそらくこの映画の狙いのように思われる。そしてそのための重要な手段として、男性の持つ、手持ちのデジタルビデオカメラで撮られた、物語にも主観にも属さない、即物的な風景の手触りが必要だと考えられているのだと思う。そしてそれは、部分的には非常に魅力的だし説得力もある。しかし、最初に書いたような理由によって、全体としては、それが成功しているとは思えない。