瀬々敬久『ユダ』、山下敦弘『くりいむレモン』

瀬々敬久『ユダ』、山下敦弘くりいむレモン』をDVDで。
●『ユダ』を観ていて思ったのは、作品が「現在」を捉えようとする時に陥ってしまう罠のようなものだ。この映画で、実際に起こった事件、16歳の少女、東京から電車で一時間くらいの郊外の街、等の、(素材として)現代=現実を表象しようとする部分と、性同一性障害を持った女性=男性と、彼=彼女を媒介として関係する(こちらは「大人」の)男女のドラマの部分との「繋がり」の必然性が、ぼくにはまったくみえてこなかった。というか、現在(という肌触りのようなもの)を表象し、現実の(街や郊外の)風景を生々しく捉えようとする方向を、ドラマの、一昔前の前衛映画みたいな構築から一歩の出ていないあり様(ぼくは大島渚の『東京戦争戦後秘話』とかを思い出した)が裏切っているように思えた。(明らかに現実に起こった事件で殺された少女を連想させる)16歳の少女のついた「嘘」を、大人たちが(それぞれの事情を抱えつつ、半ば嘘と知りつつ)追いかけて(あるいは、追いかけられて)行くという構成のドラマは、映画全体として、少女の「嘘」にそれだけのリアルな吸引力があること、つまり、少女も大人たちも等しく貫く「現代」の感触を、映画全体としてたちあげることに成功してはじめて、分離してしまっている、少女を巡る現実の事件と、フィクションとしての大人たちのドラマとが繋がって、成立するのだと思うけど、そういう映画にはなっていなくて、昔ながらの、「実際に起こった犯罪を扱えば現在が捉えられる」というような映画のパターンをなぞっているようにしか思えなかった。
ぼくは瀬々監督の熱心な観客ではないけど、瀬々監督の映画で一番面白いと思うのは『冷血の罠』という映画で(あと『KOKKURI』もかなり好きだけど)、この映画はまさに「渋谷区なんとかが丘」(よく憶えていない)という「場所」が主役であるような映画で、(『ユダ』でもそうだけど)瀬々監督には、場所や風景を捉える独自の嗅覚があるように思うのだけど、それが結局、あまりリアルとは思われない(「いかにも」な)ドラマの方へと収束されて(瀬々監督は、人物=俳優を捉えるのが上手いとは思えない)いってしまう感じがあって、『冷血の罠』も、後半で急速に面白くなくなってしまうのだった。
●『リアリズムの宿』も『リンダ リンダ リンダ』も観てなくて、山下敦弘監督の映画をはじめて観たのが『くりいむレモン』というのもどうかと思うが、これはとても面白くて、この監督が「売れっ子」であることを納得した。企画ものをきっちりと企画ものとして成立させつつも、たんに企画もので終わらない、作品としての高い質を獲得することが出来る、とか書くと何か「職人」のようなイメージだけど、むしろこの監督は、どんなものを撮っても独自の匂いや空気のようなものが出てしまうという意味では「天然」と言うべきかもしれなくて、その天然ぶりが、「くりいむレモン」という「あんまりな企画」の映画をここまで質の高いものにしているのかも知れない。「くりいむレモン」というあんまりな企画を救っていることの一因として、この映画が「現在(の表象)」というものにほとんど背を向けている、という点があるのではないか。この、あまりにベタというかあまりに凡庸なエロ話は、過度にならない程度での疑似ノスタルジーとも言える色調で「現代的(現実的)なもの」から切り離されることで、その世界(の「質」)が成立する独自の「場」が可能になっている。(終盤、温泉に逃げた兄と妹の着ている、いかにも「おろしたて」という質感の白いシャツのダサい感じがもつ「無時代」感がこの映画の世界をつくり、支えているように思う。)前半の「甘く」て「エロエロ」な色調が、後半一転して悲劇的な様相を帯びるのだが、その悲劇の突き詰め方が前半の比べて弱いようにも思えるのだけど、しかし、悲劇が決して深刻すぎる深さにまで達しないことが、この映画全体としての、どこか「子供の遊び」めいた「甘さ」となっていて、それが魅力なのだとも思う。(映画としては全然違うのだけど、そのような意味で大林宣彦の『転校生』なんかをちらっと思わせる「甘さ」が良いように思う。)
冒頭からすぐの、主人公の女の子が歌を口ずさみつつ土手を歩く横移動のシーンの、なんとも微妙な長さとかが妙にくすぐられる感じで、この時点で既にこの映画が独自の感触をもつものだということがはっきり示されている。(この長さは、「映画的」に狙ったものであるというより、監督の内在的なリズム感の独自性を感じさせる。)ラストちかくの、兄が走って逃げてしまう駐車場のシーンをロングショットで示す時の、ショットが切り返される呼吸や、そのロングショットが捉える風景そのものも良くて、「あ、これで決めるのか」と納得させられる。監督がインタビューなどで言っているとおり、確かにラストカットも良いのだけど、それらに比べると「映画」として決まり過ぎな感じもする。まあ、この映画はあくまで、企画ものであることの「限定」によって、逆に救われているという種類の映画なのかもしれないのだけど。