●宣伝を二つ。二つの雑誌が届いていた。
●「風の旅人」(vol.18)に、『芸術への「信」と、私の「身体」』というぼくの書いた文章が載っています。これは「現代生活のなかの絵画」というタイトルの連載で、次号以降もつづく予定。(二回目の原稿も受け取ってもらえたので、最低、次はあるはず。)今まで、雑誌に載った文章は、基本的に、「何何について書いて下さい」という依頼で(他人のつくった作品について)書いたものなのですが、これははじめて、「書きたいことを書いて下さい」と言われて「絵画」について書いたものです。絵画についてと言っても、美術批評のようなものではなく、あくまで画家として、絵画について考えていることを書きたいと思っています。第一回目なので、多少自己紹介的な色調ではありますけど、自作解説やコンセプトの説明のようなものとも違うものを目指しています。ぼくは、現在の「アート界」で流通しているような言説やコンテクストなどをまったく信用していないので、「現代絵画の見方」入門みたいなものにもならないでしょう。なるべく、事前に、このような形式のものにしようという形のあるものではない、絵画を観たり、制作したりする行為のなかから内発的に出て来る思考の動きを掴まえるような言葉をつづっていきたいと考えています。出来るならばその言葉が、絵画や美術にあまり興味のない(どう観たらよいのかよく分からないという)人にも届くものであって欲しいと思っています。かなりガチでいきます。まあ、肩に力が入り過ぎて大空振りということもあるかも知れませんが。
●「映画芸術」(414号・日本映画2005ベストテン&ワーストテン)にも、外国映画季評として、『風景への視線と「環境」への「認識」』という文章が掲載されています。この文章を書いたのは、ちょっとバタバタした時期で、ほんの少しの試写しか観られず、かつ、観る予定だった試写の日付を勘違いしてたりして、そんなこんなで、締め切りが過ぎてから急いで原稿を書き、その結果ゲラで大幅に修正することになり、編集の方にかなり迷惑をかけることになってしまいました。ヴェンダースの『アメリカ、家族のいる風景』と、スティーヴ・ジェイムスのドキュメンタリー『スティーヴィー』について書きました。ヴェンダースが、あくまで視覚的なものとしての「風景」によってアメリカを掴もうとするのに対して、スティーヴ・ジェイムスは、決して視覚化されざる「環境」の複雑さを捉えようとしている、ということを書きました。詳しくは本文を読んで頂きたいのですが、『スティーヴィー』は、映画作品としてみた場合、決して上等な作品とは言えないのですが、(「暴力の連鎖」などという言葉ではとても捉えきれない)ある「環境(関係)」の、絶対性のようなものを複雑に捉えていて、それによって観客に過酷な「認識?を強いるような映画で、それだけどなく、環境(関係)の絶対性に対して、どのように「介入」し得るかというところにまで踏み込んでいる、とても重要な作品だと思われます。
●最新号が出たので、「映画芸術」の前の号に載った、外国映画季評『「見えること/見えないこと」と、信じること』(タルデンヌ兄弟『ある子供』、テリー・ギリアムブラザーズ・グリム』、ヴィム・ヴェンダースランド・オブ・プレンティ』について書いたhttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/mieru.html)を「text(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/text.html)」にアップします。ついでに(というのもなんですが)、アップし損ねていた、ピーター・リム・デ・クローン『オランダの光』についてのレビュー(『プロセスを示す「時間」の不在』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/hikari.html)も、アップしときます。