●出かけようと思っていたところに、ネットの古本屋で買った『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)が届いたのでそれを持って出て、電車のなかや喫茶店などで読んだのだけど、メチャクチャ面白い。あまりに面白いので、今読んだところを二度、三度と読み返してしまうので、なかなか先にすすまない。というか、先に進もうとする気がしない。(そんなに長くない小説なのに、一日読んでいて全体の三分の一くらいしか進んでない。)先に進むのではなく、どこまでも途中で停滞していたいような小説なのだった。決して読みづらい文章ではなく、むしろ(それぞれの部分としては)すっきりとした分りやすい文章なのだが、時間や場所があっちにいったりこっちにいったりして、登場人物の誰が生きていて、誰が死んでいるのかもよくわからない。しかしそれはいたずらに話法を複雑にしようとしてのことというより、時間的な順書がどうだろうが、人物が生きていようが死んでいようが、そんなことはたいしたことではない、という感じで、因果関係が明白ではないいくつもの断片を読み進んでそれが重なってゆくうちに、過去と現在も生と死も混ざり合った、独自の時空が浮かび上がって来るのだった。ペドロ・パラモというのはいってみればトマス・サトペンとか浜村龍造のような人物で、その私生児を語り手として、父や母や息子やその周囲の人物、男たちや女たちや土地の話が語られるのだけど、それはあくまで切れ切れの(それぞれの)断片として語られ、だから別に父と息子の関係が語られるというわけではない。それぞれの断片は、おそらく緻密に相互の因果関係が計算されて配置されているのだろうけど、読んでいる時の感じとしては、その緻密な関係を読み解いてゆくというより、ただそれぞれの細部の面白さを追っているうちに、それが頭のなかに自然と積み重なって、ある複雑な立体がたちあがってくるという感じなのだ。似た感触の小説として思い浮かぶのは高橋源一郎の『ペンギン村に陽は落ちて』だったりする。(単行本として出たバージョンではなくて、雑誌に掲載された時のバージョン。確か「すばる」だったと思う。ぼくはこの小説が高橋源一郎の小説なかで一番好きだ。コピーをとって持ってたのだが、どこにいったのだろうか。捨てたおぼえはないのでどこかにあるはずだけど。)まあもともと、高橋源一郎が鳥山明のつくったペンギン村を舞台として借りて小説を書いたのは、ラテンアメリカの小説が頭にあったからなのだろうけど。
はやく読み終わってしまうのがもったいないので途中でやめて、『ペドロ・パラモ』の舞台となっているメキシコの風景や土地の感触が分るような映画を観ようと思って、近所のツタヤでペキンパーの『ガルシアの首』を借りて来て久しぶりに観たのだけど、これもすごく面白かった。七十年代のアメリカ映画の「いい加減」としか思えないズームやスローモーションは、何故こんなに面白いのだろうか。
《「この町はいろんなこだまでいっぱいだよ。壁の穴や、石の下にそんな音がこもってるのかと思っちまうよ。歩いてると、誰かにつけられてるような感じがするし、きしり音や笑い声が聞こえたりするんだ。それは古くてくたびれたような笑い声さ。声も長いあいだに擦り切れてきたって感じでね。そういうのが聞こえるんだよ。いつか聞こえなくなる日がくるといいけどね」》『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ/杉山晃・増田義郎訳)
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