●午後になってから起きだし、頭がぼーっとして何もする気が起きず、ぼんやりテレビを眺めているうちに時間が過ぎてゆく。このままだと一日こんなだろうと思って、とりあえず外に出る。近所をしばらくぶらぶらと散歩して、喫茶店に入ってホットココアを頼んで飲みながら(起きてから何も食べていなかった)本を読んでいた。喫茶店を出るともう外はすっかり暗くて、駅前は仕事帰りや買い物をするの人たちでごった返していて、人ごみのなかはぼんやりしたモードでは歩きにくいのだが、人が多いのは駅の北口のほんの少しの場所だけで、階段を昇って南口の方に降りるとそれほどでもなく、そのままスーパーで買い物をして部屋へ帰る。買い物袋を手に下げて街灯もまばらな暗い坂道をのぼっていると、少し先をシルエットになった猫が一匹道をつつーっと横切って、通りから1メートルくらい高くなっている住宅の敷地へひょっと飛び乗って、なかへ消えた。ぽつんと雨粒が落ちて来て、すぐにパラパラッとした降りになる。部屋はすぐ先なので、鞄のなかの折りたたみ傘を出さずに、そのまま歩いてゆく。
●部屋で探し物をしていて、探していたものは見つからなかったのだけど、98年から99年頃につくっていたビデオの作品が何本か出て来た。いや、これは「作品」というようなものではなく、実際ほとんど人に見せたことがないもので、ビデオカメラを回しっぱなしにして散歩したものを、簡単に編集しただけのものなのだった。例えば、2、3時間くらいかけて散歩して撮影された2、3時間分の映像を、だいたい2、30分くらいに圧縮してある。一応加工してあるとはいっても、ナレーションや音楽がはいっているわけでもなく、音は撮影した時にマイクがひろったものそのままだし、編集も散歩をしている時のリズムを損なわないようにしてあり、つまり、風景がだらだらと、その時のぼくの興味の移り変わりに応じて、ズームアップされたり、時に立ち止まってあるのものの周囲をめぐったりしながら、ただつづいているだけの映像なのだ。これを自分でも久しぶりに観たのだが、すごく面白かった。一番長いものは、ほぼ1日かけて大磯を散歩した時のもので、だらだらと風景が1時間十五分ほどつづくだけなのだが、まったく飽きることがなかった。でもこれはただ、ぼくにとってだけ面白いものなのだろう。その面白さは、(1)この映像に映っているのが、ぼくが良く知っている場所であること(特にそれが「懐かしい場所」というのではなく、日常的的によく見る風景であること)、(2)そしてそれが今から7、8年前のものであること(つまり、よく知っている場所の「過去」が映っていること)、(3)それを撮ったのが自分であること(そこに過去の自分の「視線」が記録されていること)、によるのだと思う。ここには驚く程他者の視線への配慮(他人が観て面白いだろうかという配慮)がなくて、編集して圧縮してあるのも、ただ自分が観ていて飽きないようにしてあるだけという感じなのだった。独り善がりと言えばこれ以上の独り善がりはないのだが、しかしそのことで、過去の自分にいきなり直面してしまったような面白さがあったのだった。(つくづく、「私」というのは、「私の観ている風景」によって出来ているのだなあ、と思ったのだった。)確か、同じ映像をもとにして、もう少し見栄えを気にして「作品っぽく」加工したものもあったはずなのだけど、それは自分でもあまり面白いと思わなかったためか、残っていない。
●このビデオに比べれば、ここに時々アップしている写真はもう少し他者の視線を意識しているように思える。しかしこれもまた「作品」と言えるほどに、真剣に「何かが賭けられている」わけではなく、もっといい加減に、適当に、そっけなく投げ出されている。(なにしろ写真というのは、ただシャッターを押せば自動的に何かが「写って」しまうのだから。)どうもぼくには、「何かが賭けられ」てしまっては消えてしまうような(そしてそれが「他者」に向けられた「表現」になると消えてしまうような)、緩さやいい加減さや素っ気なさ、つまりある種の執着の無さによってしか拾えないものに対する強い嗜好があるように思う。(それは、「作品」じゃないからこの程度で許してね、というエクスキューズではないはずだと思う。)そして、その時の対象が風景であることにも、ぼくの嗜好が強くあらわれている。(ぼくにとっての、風景への嗜好と、日記という形式への嗜好とには、どこか共通するものがあるようにも思える。)風景とは、環境から「私にとっての利害」を差し引いた時にあらわれるようなもののことで、だからそれは写真とかビデオとの相性がよいのだろう。考えてみればぼくは子供の頃からやたらと風景に興味があった。家族で旅行する時にカメラを持たされると、「どうでもいい風景」ばかりを沢山撮ってしまって、後から親に「なんでこんなものばかり撮ってるんだ」とよく叱られた。(確かにそこには自分が「撮ろうとしたもの」は全然写っていなかったのだけど。)中学生の時に親にせがんで買ってもらった八ミリカメラでも、撮っていたのは「どうでもいい風景」ばかりだったように思う。(高校生くらいになると、一応いっちょまえに映画=作品みたいな体裁のものをつくろうとしだすのだけど。)絵や映画が好きになったもの、ただそこに風景があったからということなのかもしれない。
●今日の天気(06/10/13)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1013.html