アニメ的な風景表現について

●『風人物語』という何年か前につくられたアニメを観ていて、ぼくは自分が何故こんなにアニメ的な風景表現というか、風景描写が嫌いなのだろうか、と思った。
●例えば、春になって気候がかわり、それによって体調や気分に変化が起こることと、人を泣かせるためにつくられた物語によって悲しくなったり、昂揚させる物語によって気分が昂揚したりすることとは違う。人を泣かせる話は、あらかじめ「人を泣かせる」という目的に従って構築されたものの作用によって、人の気分が変化するのだが、春という季節はそれ自体としてあり、もっと複雑な組成をもち、それを人が感知して、ある気分がかたちづくられる。
何日か前にテレビで、番組と番組の間の繋ぎのような五分くらいの番組に養老孟司が出ていたのを偶然観た。養老氏は、例えば散歩のために外へ出ると、自分の足下を気にしなくてはならなくなる、地面が堅いとか柔らかいとかを感じて、それに対応して歩調をかえなくてはならなくて、つまり、そういうことを「頭を使う」と言うのだ、と言っていた。ここで養老氏が言っていることはごく当たり前のことだ。これに倣って言うならは、春になって体調や気分が変化することは「頭を使う」ことだと言えるが、人を泣かせるための物語で泣くことは、「頭を使う」と言うには値しない。しかし、ここで動く感情の大きさは、人間にとって決して無視することの出来ないものではある。つまり感情は、より少ない要素で(より、ものを見ないことによって)こそ、強く作動する。
●アニメ的風景表現といってすぐ思い出されるのは新海誠で、ぼくはやはりこの作家の風景に対しても、とても嫌悪を感じる。『雲のむこう、約束の場所』を観てまず強く感じられるのが、げんなりする程の「セカイ系臭さ」で、それは乳幼児のいる部屋に入った時のミルクの匂いのように濃厚に漂っている。なんというか、物語も世界設定も、信じ難いくらいに幼稚でかつ感傷的で、大変失礼ではあるが、思わず何度も失笑するというか、鼻で笑ってしまう。しかし、そのように半ば(言い方は悪いが)バカにするような態度で観ているにも関わらず、例えば、眠りつづけている女の子と、女の子を病室にまで訪ねた男の子とが、既に他所に移送されて空っぽになった病室で、「夢」によって一瞬だけ繋がって触れ合うシーンでは、大きく感情が揺さぶられてしまうことを否定出来ない。(というか、泣いてしまう。)一方に、こちら側の世界に留まって日常生活を送る男の子がいて、他方に、向こう側の世界へ追いやられて、孤独に閉ざされる女の子がいて、その二人がかすかな接点によって繋がっている、という設定は『ほしのこえ』から引き継がれていて、そういう設定自体もまた幼稚なロマンチシズムだと言うしかないものなのだが、それでもなお、そこには人の感情の何かに確実に触れるものがある。ここで面白いのは、この作品では人の感情を動かすものが「いきなり」あらわれるということだろう。つまり、人の感情を動かすに足りる説得力のある設定や、厚みのある描写が積み重ねられることで、土壌が準備された上で、何か決定的な場面によって感情が動かされるわけではなく、ただ、互いに閉ざされている者たちが、不意に繋がるというその事柄が、それまで「鼻で笑っていた」ような世界の上でいきなり起こり、それによってふいに感情が掴まれるのだが、次のシーンに移るとまた「鼻で笑う」ようなものでしかなくなったりする。つまり、感情が動かされるという出来事は、作品の質とも、設定の説得力とも、描写の厚みとも関係なく、ある「ツボ」をつかれることで(ただそれだけで)他から切り離されたかたちでわき上がるということなのだ。
●感情は、いともたやすく、効率よく、「安く」動かされ得る。にも関わらず、人は感情によって生き、それに常に左右され、そこから自由にはなれない。感情とはある意味、人にとって最も安易なエンターテイメントの道具で、自身のツボをちょちよっと突いてやるだけで(つまり、かなり少ない要素のみによって)、簡単に、泣いたり、笑ったり、癒されたり、まったりしたり、昂揚したり出来る。感情とは、安っぽいポルノによって喚起される欲情ようなものでしかない、とさえ言ってしまいたくなる。
(ただ、短い時間のうちに大きく変化する感情に比べ、気分というものは、もう少し長く持続し、変化もゆるやかであるように感じる。つまり、気分の方が、感情よりもより複雑な組成によって出来上がっているということなのだろうと思う。この、気分のある程度の恒常性が、一時の感情的な吹き上がりを抑える役割をしているのではないだろうか。つまり、感情に作用する作品よりも、気分に作用する作品の方が、より高等なのだと思う。)
●『雲のむこう、約束の場所』の繊細で丁寧な風景表現は、そのあまりにも幼稚な物語や世界設定を補強するような役割をもつ。つまりそれは、大きく揺れ動く感情を強く喚起する物語(の断片的要素)に対して、作品を通してある程度恒常的に作用する気分を作り出すために機能しているのではないだろうか。この作品では、感情を準備し下支えするのは、気分を生成し維持する風景表現であるのだろう。
確かに風景というのは人間にとって、自身の感情を投影し記載する場としてあらわれる。だからこそ作品にとって風景表現や風景描写は、作品の感情をたちあげるための基底として作用する。風景が感情を寓意するといった単純な表現のことを言っているのではなくて、風景の積み重ねが、その作品の土壌となるということだ。
しかし、実際の風景は、そこに人の感情が投影されるにしても、人の感情の都合のみであらわれるものではない。人が花見をするから桜が咲くのではない。花見をするのは人の都合であり、人の社会の制度であるが、桜が咲くのは桜の都合であり、春という季節の到来のためであり、花見という制度(というか慣習)を維持させるためではない。人が桜に対して付与する感情は、人の勝手な思いであるが、そのような感情が記載可能なのは、桜の特徴のおかげでもある。桜の花が、短い期間のみ咲いてすぐに散ってしまうこと、花が咲く時に木には葉がないこと、薄い桃色の花弁は光りを透過させ、ぼうっと光っているように見えること、桜が咲く時期が、春へと変化する季節の変わり目で、人が心身ともに不安定になる時期であること等々が、人が桜に対して持つ感情を支え、もしくは誘導すらするかもしれない。桜は、人のある感情を的確に表現するが、それは、もともと人にある感情が桜という実在物に貼り付けられるのか、あるいは、桜という実在物に導かれることによって、人の感情がそのようなものとして形作られるのか。ある傾向の感情がもともとあるからこそ、人は桜に惹き付けられるのだが、同時に、実在する桜の形象が、人の感情を「桜」に見合ったものへと変形させ、補強させる。風景はおそらく、半ば内界にあるが、半ば外界へと繋がるものだ。(だからこそ、風景を「見る」ことが、「頭を使うこと」であり得る。内面的な人こそが風景を発見する、などと単純化することは出来ない。)風景には内面が投影されるが、しかしその内面は実は、普段見ている風景によってつくられたものであるかも知れないのだ。
だが、作品における風景表現は、しばしば人の内面の方へと大きく傾く。まさに、ある感情を生むために、ある気分をつくるためにという目的に沿って、かたちづくられる。この時風景は、外界への通路を閉ざされる。このような風景は、たんに叙情へと流れる。新海誠による、リアルで、日常的で、しかし過度に断片化された風景は、ぼくには外界への通路が塞がれた、息苦しいものに感じられる。それはまさに、感情が記載される場としてのみ機能する風景であって、それが登場人物の感情の外へ、あるいは作品という構造体の外へも延びて行き得る奥行きをもったものとは、どうしても感じられない。それは、実在する桜の花を見ることと、桜の花が人に与える効果を分析して、その効果を人工的に再現させたものを見ることとの違いとも言える。それは一見同じような経験に思えるかもしれないが、後者には、未だ発見されていないもの、意識化されていないものを、新たに発見するという可能性が、あらかじめ閉じられているのだ。(世界には常に、未だ発見されていないもの、意識化されていないものへの通路が開けているはずだ。)桜の何が、人にどのような影響を与えるのかということは、本当は「影響があらわれる前」には、決して分らないはずなのだ。その「分らない」という幅をどの程度含み得るかどうかに、作品の質はかかっているように思われる。
●ただ、最後にタワーへと向かって飛ぶ飛行機のデザインは、素晴らしいものだと思った。