M・ナイト・シャマラン『レディ・イン・ザ・ウォーター』

M・ナイト・シャマランレディ・イン・ザ・ウォーター』をDVDで。この映画はイタリアから帰って来るときの飛行機のなかでやっていたのだが、最初の十分か十五分くらい観て、あまりに下らないので観るのをやめてしまった。改めて観てみても、開いた口が塞がらないほどに下らない。自分で勝手につくったルールにもとづいて、勝手に駒を動かし、勝手にあがりの位置に駒を置いて、めでたし、めでたしと言われてもなあ、としか思えない。物語というのは皆、基本的にこのようなもので、くだらないのだから、決して物語りなど信用するな、ということが言いたくてつくったとしか思えないような物語だ。もっともらしさへの配慮というか、物語の外側への緊張感というか、そういうものがほぼ完璧に欠落している。下らなくてもバカでもいいから、とにかく人を楽しませようとする、というようなものでもない。(まあ、『サイン』以降のこの監督は完全に行き詰まっていて、ほぼおんなじ「お話」を繰り返すばかりなので、この映画だけが特に酷いということでもないのだが。)
しかし、にも関わらず、どこか憎めないのがこの監督の映画の不思議なところなのだ。この映画を面白いというのには抵抗がある。決して面白くなどないのだけど、それでも嫌いではない。
例えばこの映画の主人公であるアパートの管理人は、物語上の「役割」から言えば、妻と子供を殺されてひっそりと隠棲する、世界の悲惨さという重荷を一人で背負っているかのような(つまり、この物語において、世界の悲惨さを代表しているような)存在なのだが、映画としての描写では、今までまったくモテたことがないのに、いきなり凄い美人にモテてしまって、というか頼られてしまって、すっかり舞い上がってやたらとがんばってしまう、間抜けだけど憎めない奴、というような人物であるかのように描かれている。大江健三郎の小説にでも出てきそうな、世界中の重荷に一人で耐えているかのような人物が、こんな描かれ方でいいの?、と思ってしまうくらいに、重荷を背負うに足りる厚みがない。(しかしそこには別の厚みがあり、魅力もある。)それはこの人物だけに限らない。映画の舞台となるアパートに住む人々は皆、今後の「世界」がかわってゆくための、非常に重要な「役割」を持つ人たちのはずなのにも関わらず、安っぽいB級コメディの紋切り型の登場人物のような描写しか与えられていない。そしてそれは、紋切り型ではあるものの、それなりに楽しく魅力的なものなのだ。(秘密ばかりの「秘密のない男」とか。)そしてこの魅力や楽しさは、物語上の世界観が要請する「役割」とはほとんど何の関係もない。(だいたい、人類の未来をかえるきっかけとなるような本を書く作家の役を、監督本人が演じてしまうというのは、たちの悪い冗談なのか、それともベタなのか。おそらくベタなのだろうと思うけど。)このような、物語上の「役割」と映画としての「描写」の噛み合なさが、この最低の物語を、ギリギリのところで救っているように思われる。
おそらく、この物語によって伝えようとする「メッセージ」とか「世界観」とかは、監督にとってきわめてマジなものなのだと思われる。(そしてそれは最低のものだ。)そうでなければ、同じような話ばかりを繰り返し映画にするとは思えない。しかしそのマジなメッセージを具体的に映画として形象化しようとする時、この監督は、まったくそれにふさわしくないような映画的なボキャブラリーしか使わないのだ。ここで、どこまで本気で、どこまで冗談なのか分らない、というのではなく、あくまで本気なのだが、その本気が冗談にしか見えないような、独自の複雑に捩じくれた形態が浮上するのだ。(これがもし、意識的な冗談だとしたら、それは単にセンスが悪く、下らないものでしかないだろう。)この、メッセージとボキャブラリーとの乖離の隙間に、辛うじて世界のリアリティが滑り込んで、この閉じられた物語を、ギリギリのところで救うのだと思う。
●この映画は、勝手にやってきた水の精が、勝手に帰ってゆくだけの話なのだけど、その、帰ってゆくのを妨害するのが、犬みたいな、イノシシみたいな、変な猛獣一匹だけというのも、娯楽映画の設定としても、あまりに貧相なのだった。しかも最後には、味方側の、猿みたいな獣が何匹も出て来て、たった一匹だけの猛獣をよってたかってボコボコにするというのもあんまりな話で、いくら敵側といっても、それはちょっとやり過ぎなんじゃないかと思ってしまう。こういうところのバランスの悪さも、絶妙なものがある。意識的な冗談としてこれを真似しようとしても、このような所までは真似できなくて、もっとあざといものになってしまうだろうと思う。
●この映画には、批評家というかシネフィルみたいな人物が出て来て、物語の徴候を読み間違って主人公を混乱させたりするのだが、この人物をもって、監督が物語に対して批評的な(メタフィクション的な)意識をもっているとするのは、おそらく違うと思う。この人物もまた、他の人物と同様に、「映画にはよくこういう人が出て来るよね」というレベルで設定された人物で、つまり紋切り型の一つの形態なのだと思われる。(というか、登場人物が物語に対してメタレベルの意識を持つということ自体が、既に紋切り型でしかない。)
●昨日の散歩(07/04/04)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo070404.html