お知らせと、『レディ・イン・ザ・ウォーター』

●お知らせ。「新潮」五月号(http://www.shinchosha.co.jp/shincho/)に、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』についての書評(「探る手の〈動き〉が掴み取る〈形〉」)を書いています。同じ号の保坂和志「小説をめぐって(三十一)」でも、同じ本(同じ小説)について、連載一回分をまるまる費やして論じられて(絶賛されて)いて、思いっきりかぶってしまっています。
●『レディ・イン・ザ・ウォーター』についてもう少し。この映画の不思議なところは、その世界に外がまったくないところだろう。外が描かれていないのではなく、外をまったく意識させないのだ。この映画では、あのアパートがそのまま世界のすべてであって、そこで全て自足している。映画で描かれている舞台の広さと、世界の広さとが、少しのズレもなくぴったりと一致しているという印象をうける。あまりに完結しているので、閉塞感を感じることすら出来ない。
普通、ファンタジーは、この世界とは別にある違う世界へのひろがりとしてあるように思う。タンスの裏に別の世界がひろがっている、とか、この世界では冴えないけど実は魔法使いだ、とか。日常的で等身大の世界とは別の世界へと繋がるアクセスポイントを持つことで世界がひろがる、という体験が、ファンタジー的な物語の魅力のほとんどを占めているのではないか。しかしこの映画では、水の精があらわれることで世界が広がりもしなければ、縮まりもしない。水の精は、アパートのプールの底からやって来て、アパートの上空へと去って行く。水の精は他所からやってくるのだから、水の精という存在そのものが、アパートの外の世界(あるいは、もうひとつの別の世界)へのひろがりを表現しているはずなのだけど、彼女はまったく外も広がりも感じさせず、プールの底でボウフラのようにわいて出て、水が蒸発するように空に消えてしまう。このことが、この映画がファンタジーとしてきわめて異様なものであることを示している。水の精は、もともと自足し完結している世界へ、ただ「意味」を与えるためだけに、つまり意味を「読み取らせる」ためだけに、わいて出て来る。だからこの映画では、世界の意味が読み替えられるだけで、何かが起こるというわけではない。
(実際、この映画では、アパートの外へ出るための出入り口が一度も映されることがなく、人はどこからこのアパートにやって来て、どこから出て行くのか分らない。というか、アパートの住人はいつもアパートのなかにいる。中国系の女子大生が留守をしていることはあっても、携帯電話ですぐにつかまるし、電話で話した後、すぐに帰って来ているから、外にいるとは思えない。そもそも、水の精も彼女を攻撃する獣も、はじめからアパートの一部としてあらかじめ書き込まれていたとしか思えない。まあ、あらゆる出来事が何かの「サイン」であり、全ての存在に「意味=役割」がある、というような考えをベタに押し進めてゆけば、結果としてこのような世界に行き着くのは必然であるだろうけど。)