トニー・スコット『ドミノ』

トニー・スコット『ドミノ』をDVDで。こんだけ馬鹿げた法螺話(といっても、実話が元になっているらしいけど)を、これだけ観られるものに仕立ててしまう手捌きはさすがだとは思う。それに、現代のアメリカ社会に対する一定の配慮というか目配せもきちんとされていて、まあ「知的」ですらある気配も漂う。しかし、だからといって、この作品が特に「良いもの」として持ち上げられる程のものとも思えない。「退屈させない」ということと「面白い」ということは違うということを、こんなにはっきり示す作品も珍しいと思う。
この映画は、基本的に空間を無視している。空間を無視しているにも関わらず、クライマックスを、中空に浮いたようなタワーでの銃撃戦に設定する。場面は非常に高い位置にあり、そこへはエレベーターを使って昇ったり降りたりするしかない。つまりこの設定は、空間を意識した演出を要請するものだ。ここでのアクションやサスペンスは、この空間的設定があってはじめて成立する。しかし演出は、ほとんど空間と関係のないものなので、このクライマックスは、たんに失敗したものになっている。というか、トニー・スコットは、このタワーでの銃撃戦の演出をほとんど放棄しているように、ぼくには思われた。(空間を無視することが悪いというのではなく、空間を無視するのならば、それに見合った
クライマックスの設定がなされるべきだろう、ということなのだ。)
空間を無視した演出は、基本的にアクションを不可能にする。アクションとは、空間のなかで何かが動くことだからだ。そのかわりに、語りを複雑にして場面を頻繁に移動させたり、カットを細かく割ったりすることで動きをつくろうとする。とはいえ、もともと単純な賞金稼ぎの話なので、複雑にするにも限度がある。それに、あまり複雑にし過ぎると観客が着いて行けなくなる。そこで、テレビの撮影を介在させたり、「ビバリーヒルズ青春白書」の俳優たちを登場させたりして、メディア的な厚みと混乱とをつくる。この映画では、カメラとモニターの間、あるいは、モニターに映し出されているものと、それを観ているものとの間にのみ、不思議な空間が出現しているように思う。(この映画の語りの複雑さは、ほとんどが目くらまし的なものだ。例えば、殺されたと思われていた四人組が、実は生きていたことが途中で示されるのだが、その事実が、映画全体の構造を揺るがすことはなく、ほとんど何の影響も及ぼさない。それはたんに、その場、その時間をもたせるためのネタでしかない。この映画のあらゆる細部が、そのような意味でのネタで出来ている。)
観終わった後に、決してつまらなくはないけど、かといって面白いわけでもない映画を観たという、とても空しい徒労感のみが残る。この映画で唯一積極的に面白いと思ったのは、ルーシー・リューの捜査官が、鉛筆削りを必要以上にコップにぶつけている仕草とその音だった。