●国立西洋美術館でベルギー王立美術館展。ピーテル・ブリューゲルも面白いし、ルーベンスも確かに凄いのだけど、なんといっても、アンソールの初期の傑作「ロシア音楽」が観られたのがよかった。いわゆる「アンソール風の絵」になる前のアンソールの作品がぼくは昔から大好きで、美大受験生(浪人)時代には多大な影響も受けた。アンソール以前のアンソールの絵の素晴らしさは、油絵の具でしか実現できない光の表現の素晴らしさで、硬質で、目にがっつりとした物質的な抵抗感を感じさせながらも、同時に透明感もあるという油絵の具独特の物質的な特性と、ハーグ派などから引き継がれているような「光」とが、ここでは見事に結びついている。西洋絵画において、絵の具の物質性と、それによって実現される図像的な表象との関係は、クールベ以降とそれ以前とでは明確に違っていて、ここではクールベ以降の絵の具の(物質性を強調する)使い方と、ハーグ派的な透明な光の表現とががっちりと結びついているのだ。窓から入ってきた光が、室内のさまざまな物に当たって乱反射し、その反射光もまた、別のものに当たって反射する。この「光」の複雑な有り様。ここで、このような光の微妙な表情の表現は、フェルメールのように映像的な透明感ではなく、むしろ(映像的な表象にとっては)不透明なノイズ(の乱反射)としてある物質性の強調によって捉えられている、と言えばよいのか。とにかくこの絵は素晴らしいのだった。光と言えば印象派というのは間違いで、むしろ印象派はこのような微妙な光の表現を暴力的な外光(と、チューブから出したそのままのなまの絵の具)によって破壊してしまった。(勿論、それによって別の何かへの通路が開けたわけだけど。)
●あと、デルヴォーの絵の実物をはじめて観たのだけど、まるで中学生が(ポスターカラーで)描いたポスターみたいにパキパキに色が塗り分けられていて、その余りの薄っぺらさに(つまり技術的な幼稚さに)唖然とした。観ながら、ヒエーッと声をだしてしまいそうになった。しかしそのあまりにきっぱりとした(何の含みも厚みも感じられない)徹底した薄っぺらさによって、不思議な静謐さというか、「全てが終わってしまった後にやってくる黄昏」感が醸し出されていて、ああ、デルヴォーに惹かれる人が惹かれるのはこういうことなんだなあ、とはじめて納得できた。ポストモダン的な「すべては終わってしまった」という感覚は、ヨーロッパ的な、成熟したというか老成したような社会では実質のあるものなのだなあ、と思った。(クノップフなんかは下らないとしか思えないのだけど。「シューマンを聴きながら」だけはちょっと良かったけど。)