ビクトル・エリセ『エル・スール』

●昨日の日記を書いた後、ビクトル・エリセの『エル・スール』をDVDで観てから寝ようと思ったのだけど(何年ぶりに観たのだろうか)、そのあまりの素晴らしさに感情が昂ってしまって、朝までまったく眠れなくなってしまった。しょうがなく起き出して、朝方にこれを書いている。
例えば、娘が、家のなかの雰囲気が悪くなっていることへの抗議として、ベッドの下に隠れてしまうシーン。母親は見えなくなった娘を心配して娘の名を呼びながら探すのだが(家中を探している母親の脚が、ベッドの隙間から示されたりするのだが)、特異な能力をもつ父には娘の居所も意図も既に分かっていて、娘の無言の抗議に対する無言の応答として、自分の悩みはとても深いものなのだと知らせるように、娘の部屋の階上から、床に杖を当ててゆっくりとしたリズムでコツ、コツ、コツという音を響かせる。その音を聞いた娘は父親の意図をすぐに察し、その悩みの深さを感じつつも、それを納得出来ず涙を流す。しばらくして母親が娘の姿をベッドの下にみつける。床とベッドとの隙間に、窮屈そうに身体を折り畳んで覗き込む母親の全身がみとめられる。娘を見つけた母親は、同時に階上から響く杖の音にも気付き、父と娘との間に既に沈黙のうちにコミュニケーションが成立している(しかし、そのコミュニケーションは、互いの立場が理解しがたいものであることを理解する、というような種類のものなのだが)ことをすぐさま察知し、自分一人が蚊帳の外に置かれていることを知る。この残酷なシーンの、何ともデリケートな描写。
あるいは、父と娘の最後の会食のシーン。おそらく既に自殺を決意しているであろう父親が、学校にいる娘を昼休みに呼び出し、ホテルで食事をする。この、穏やかに会話しつつ、二人の断絶を決定的に示す、(微妙に対象との距離を変化させつつ交わされる)きわめてオーソドックスな切り返しの素晴らしさ。(このシーンが良いのは、たんに断絶を示すのではなく、もしかしたらかつてのような「交感」が可能になるのではないかと思わせるような、距離の微妙な伸縮の震えが感じられるからだろう。)このシーンでは、ホテルの食堂の細長い空間、二人の座る窓辺の席と、出入り口(や、その近くにいる給仕)との位置関係、隣のホールで結婚式をしてして、その音がずっと微かに聞こえていること、などの、空間の設定がとても面白いのだけど、そのような空間をみせつつも、二人の会話はあくまでシンプルで静かな、淡々とした切り返しで示される。このオーソドックスな切り返しが何故こんなに素晴らしいのか。それは、微妙な呼吸と距離感とで対象に近寄ったり離れたりするカメラの位置や編集のリズムが素晴らしいのか、俳優の演技が素晴らしいのか、演技を越えた俳優の存在そのもののすばらしさなのか、それとも、娘役の女優の着ている臙脂色の服と、テーブルに一輪挿されている花の色との響き合いが素晴らしいのか。おそらくその全てなのだろうが、しかし、その全てと簡単に言うけど、「全て」って何なのか。ぼくは本当に、バラバラな系としてあるそれらの全てをまとまりとして観ることが出来ているのか。バラバラなはずのそれらが、本当に一つのイメージとしての「素晴らしさ」を形づくっていると言えるのか。だいたい演技とは何なのか。それはその俳優の存在そのものとどう違うのか。あるいは、演技はそれを演技する人が着ている臙脂色の服やその前に置かれた花とどの程度混ざり合い、どの程度分離しているのか。このシーンの娘役の女優の表情は素晴らしいと思うのだが、それは、父との断絶を示すものとして素晴らしいのか、それとも、その表情そのものとして素晴らしいのか。
●この映画のグッとくるところは、娘が父親の遺品として「振り子」を持っているということよりも、父親が最後にした長距離電話の領収書を(「母親」に対して密かに)持っているというようなところにある。(しかし、この映画は母親に対してあまりに残酷というか冷淡だとは思うけど。)