●「TEXThttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/text.html」を更新する作業をしている時、何かの手違いで(何が原因なのかわからないのだけど)、「偽日記」のデータが全て消えて真っ白になってしまった。出かける間際だったし、一体何が起こったのかと一瞬焦ったのだが、なんとか復旧することが出来た。
●と、いうことで、「TEXThttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/text.html」に、『アメリカ、〈風景〉と〈環境〉(「風景」への視線と「環境」への認識)』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/eigei.2.html(ヴェンダースアメリカ、家族のいる風景』、スティーヴ・ジェイムス『スティーヴィー』について、「映画芸術」414号掲載)、『映画のなかの絵画/「美の美」(吉田喜重)をめぐって』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yoshida.html(吉田喜重 反映画ーはじまりの映画、おわりの映画」パンフレット掲載)、『歴史のなかの小さな場所/ジョナス・メカス「どこにもないところからの手紙」』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/dokodemo.html(書評「新潮」2006年1月号掲載)、『オルガの死はどの程度ナナの死の反復なのか/ゴダール「アワーミュージック」』http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/godard.html(ホームシアターファイル」掲載)をアップしました。
●これらの原稿は、その都度の依頼に応じて書かれたもので、特に関連性を意識しているものではないのだけど、現在のぼくの「傾向」のようなものを反映しているように思う。例えば、ゴダールの『アワーミュージック』について、様々な対話が可能な開かれた場としてのサラエヴォという歴史的、政治的側面よりも、ゴダールとオルガという、非対称的な孤独な個人が擦れ違い、出会い損ねることの方を重要視している。(「開かれた対話」よりも、閉ざされた個と別の閉ざされた個との出会い損ないによってこそ、決定的な何かが伝達される、という点をみている。)あるいは、メカスの本から、あきらかな「ナショナリズム」の匂いを感じつつも、それを肯定しようとしている。ナショナリズムを肯定しているのではなく、ナショナリズムに繋がってしまうような幻想を個人が持たざるを得ないことの不可避性を肯定しようとしている。メカスが面白いのは、ナショナリズムと繋がってしまうような「美的」な幻想(その幻想は、その人物が生まれ、育った土地=環境と不可分で、そのなかで生じ、育まれる、という意味で「映画芸術」の原稿とも関係する)が、具体的な「作品」のなかで(ギリギリの危ういところで)解体され、昇華されるということなのだが。(つまりそのような幻想は「教養」によっては決して解体されず、「美的」な作品によって昇華されることでしか解消されない。)そのことは、今出ている「ユリイカ」に載っているフジタについてのテキストとも響き合っている。