『二十歳の死』、その他

●風邪が随分と良くなったのと、空がからっと晴れ上がったのとが重なって、とても気分がよく、ちらっと立ち寄った紀伊国屋書店で、(最近は本屋の棚をのぞいてみても全く本を読みたいという気持ちにならなかったのだが)あれも読みたい、これも面白そうだと、随分と散財をしてしまった。(それにしても、例えばラカンの『無意識の形成物』とかは、上下そろえて買うと一万円を越えてしまって、なかなか手が出ない。こういう「難しい本」は、図書館で借りてもほとんとほ読まずに返却してしまうこことになる。手元に置いておいて、しつこく何度もトライしてみたり、「あ、今なら読めそうな感じだ」と思った時に読まないと読めないのだった。)
夜、部屋で、デプレシャンの『二十歳の死』をビデオで観直す。デプレシャンの映画に特徴的な息苦しさと言うか、抜けの悪さみたいなもの(デプレシャンの映画にはフレーム外が存在しない、と言われるような感じ)は、前にも書いたけど、おそらく「断言」が徹底して避けられることと関係していると思う。つまりそれは、決め球や鶴の一声のような、決定的な声を響かせない、ということだろう。(逆に言えば、この作品はこういうものだ、こういう位置に整理出来る、と言い切って安心することが出来ない。)無数の断片や複数の層が常に重なり合い、響き合い、あるいは分離し離反しつつ存在する、そのざわめきの総体として作品はある。だから、それを形作る一つ一つの要素を取り上げても、あるいはその諸要素の(映画作品内での)関係を図示するように解読してみても、その作品について何か言ったことにはあまりならない。(もともと分析的な映画作家であるデプレシャンの仕掛けた「仕掛け(意識的に構築された部分)」だけを分析してみても、あまり面白いことにはならない。)ある作家の、最も特徴的な部分、つまり、最も面白く、最も可能性を感じさせる部分は、しばしば、そのまま、最も弱い部分でもあり得る。『二十歳の死』はまさにデプレシャンのそのようなあやうさが色濃く出ていると思う。
●『キングス&クイーン』の公式ホームページ(http://www.kingsqueen.com/square/)にある、稲川方人樋口泰人によるデプレシャンへのインタビュー(http://www.kingsqueen.com/square/?itemid=5)は、デプレシャンが作品をつくる作業手順(作家の「思考」は作業手順にこそ集約的にあらわれるとぼくは思う)を知る上でとても面白かった。