●ぼくは昨日、『百年恋歌』(ホウ・シャオシェン)について、ちょっと否定的に書き過ぎたかもしれない。とにかく、ホウ・シャオシェンがとてつもなく高度で凄いことをやっていることは間違いがないと思う。しかし、ぼくにとっての『百年恋歌』体験(あえてこういう言い方をするけど)は、最初のパートの前半での半端ではない昂揚と、後半での「あー」という失意とでほぼ完結してしまって、それ以降の話も一応ちゃんと観ているつもりではいるけど、気持ちの上では冷めてしまっている感じだった。もし映画を観ることが、本を開いて読むように出来たら(ここで、DVDで観ていたならと書かないのは、この映画の凄さはDVDではほとんど伝わらないだろうからだ)、一話めが終わったところで一旦本を閉じて、すこし冷静になってからつづきを読む、みたいなことをするだろう。(あるいは、続きは読まないで、最初のところだけを何度も読み返すかもしれない。)
そのくらいに、この映画の冒頭の部分(スー・チーが、兵役に行ったチェン・チャンからの手紙を受け取るシーンくらいまで)は素晴らしくて、何が素晴らしいと言って、ある場所があり、その場所を、訪れ、留まり、去って行く、何人かの人がいる、ということの全体を、生々しくも繊細に捉えているということで、しかしそれが途中から、オールディーズ的な甘さや切なさへと収束していってしまうのだ。『百年恋歌』は全体としては、文字通り「歌」と共にあり、「歌」によって語らせるような映画で、一つ一つのパートの「短さ」(それ自体としての完結性)もまた、「歌」というものに忠実であろうとすることからきているのだろう。しかしそれでも、この映画のファーストシーンで、一曲まるまる聴かせ切ってしまう大胆さと、後半で物語が、オールディーズ的な感情へと収束していってしまうこととでは、「歌に忠実である」ことの意味が異なると思う。逆に考えれば、この映画の冒頭部分こそが、ホウ・シャオシェン自身の「狙い(意図)」をも超えて出て来てしまうような、ホウ・シャオシェンの資質の(そしてその達成の)最も美しい部分だと言えると思う。
この映画には、危険な完成度があるように思う。それは、(「作品」というものにおいてその最も根源にあるような)生々しさよりも、作品としての完成度の方を優先させてしまうというような意味だ。(同様のことを『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を観た時にも感じた。これも本当に凄い映画なのだけど。)例えば『珈琲時光』はとても微妙な、というか、限りなく駄作に近い映画で、しかしだからこそ、そういう形でしか「拾えないもの」を、その微妙さにおいて捉えているのだと思う。