『百年恋歌』(ホウ・シャオシェン)と「タモリ倶楽部」

シネスイッチ銀座での上映の最終日にすべりこみで『百年恋歌』(ホウ・シャオシェン)を観る。個々の作品の出来や良し悪しとは別に、最近映画を観て面白いと思うことがすっかり減った。イタリアから帰って来てからも、実は何本か映画は観に行っているのだけど、それらについて特に何か書こうという気になれないでいた。しかし、この映画の出だしは凄くて、これが映画だよなあ、と鳥肌がたった。でも、それはあまり長続きしなかった。
三つの短編からなるオムニバスで、最初の話が初期のホウ・シェオシェンのスタイル(ノスタルジー)、次が中期(歴史)、そして最後が最近の傾向(現在)で、そのれぞれを「現在」の達成によってバージョン・アップして並べたような感じ。とにかく、全体としてメチャクチャに高度な映画で、撮影そのものの高度さ、あまりに大胆な音や音楽の使い方など、どこを切っても隙がない。形式的に隙がないだけでなく、最後のパートでのスー・チーの、あまりに近過ぎるクローズアップ(近過ぎてピントが揺らいでいる)の生々しさや、チェン・チャンの住んでいるアパートを出て向かって左へ向かうと、高速道路へ通じると思われる登り坂が背景に見えるというロケーションの面白さなどの不意打ちもあり、観ている方も一瞬たりとも気が抜けない瞬間がつづいてゆく。なのに何故、いまひとつ乗れないのだろうか。
最初のパートの途中までは、とにかく凄いと思って観ていた。例えば、スー・チーの履いているエメラルド・グリーンのような色のパンツ。ビリヤード台のグリーンや壁の塗装の剥げかけた薄いグリーン、そして表に見える露出オーバー気味の木の緑など、画面全体の緑と響き合いつつ、しかしそのどれとも異質な「光沢」のある素材のパンツをスー・チーは履いているのだが、このパンツの画面のなかでの「現れ」がとにかく素晴らしい。いや、パンツはたんなるパンツに過ぎないのだけど、この映画のフレームのなかにそれがあると、その存在が奇跡であるかのように輝く。奇跡といっても、ただ光沢のあるグリーンのパンツが(スー・チーの尻や脚を包みつつ)それ自体としてそこにあるというだけのことなのだが、しかし、その現れ方が、映画でなければ決して観られないようなものとして浮かび上がっているのだ。(このパートで女優の着ている衣装は、このグリーンのパンツに限らずどれも素晴らしいのだけど。)
あるいは、スー・チーとチェン・チャンがビリヤードをするシーンの素晴らしさ。物語としては、ここで二人には(というか、前任者に当てた手紙を見てしまっているスー・チーは特に)、とても複雑で微妙な心理的な駆け引きがあり、同時に、恋愛が「ここから始まる」という特別な空気があるわけだけど、それらのものを背景に持ちつつ、このシーンは、ただ二人の人物がそこにいて、ただビリヤードをしているだけなのだ。しかし、ただそこに人がいて、ビリヤードをしている時の、その「居る」こと「やる」ことの微小な息づかいのようなものまで、カメラは繊細に捉えている。ただ、居ること、ただ、していることを、こんなに的確に捉えることが、映画以外に出来るだろうか。
しかし途中から、何か「違う」という感じになってくる。兵役についたチェン・チャンからの手紙をスー・チーが受け取るシーンで、ベタとギリギリの、凄く大胆な音楽の使い方がされる。いや、正直言うと、えっ、こんなベタでいいの、とチラッと疑問に思ったのだが、そこでは、その「ベタ」な使い方を、あえてやった大胆さと納得することも出来た。(しかし、このパートのラストシーンを見ると、やはりあれはただの「ベタ」に過ぎないのではないかと思った。)具体的に、どの辺りから疑問が大きくなったかと言うと、休みを利用して帰ってきたチェン・チャンがスー・チーを探すあたりからで、勿論、映画としての高度な持続は一瞬たりとも緩まないのだけど、だからこそなお、何故ホウ・シャオシェンが、こんな、良く出来過ぎて白けてしまうウェル・メイドの恋愛小説みたいな話を撮らなければいけないのかが、分らなくなってくるのだ。こんな展開で本当にいいの?、本当にこんな物語を語りたいの?、と。確かに、スー・チーとチェン・チャンが再会したシーンでの、二人の距離感やたたずまいの捉え方は素晴らしいのだけど、しかしあまりにベタな物語の展開のため、物語の重力の圏内におし留められてしまっているように、ぼくには見えた。冒頭ちかくに、あまりに素晴らしいビリヤードのシーンを見せつけられてしまっているから、なお一層そのように感じられてしまう。
おそらくホウ・シャオシェンは「情」の人なのだと思う。しかし「情」は、しばしば「型」へと流れてしまう。というか、「情」は「型」にぴったりとはまった時に、最もその力を強く発揮する。ホウ・シャオシェンが凄いのは、基本的に「情」からはじまり、「情」によって作品を展開し煮詰めてゆく人なのにも関わらず、それが「型」にきれいに納まってしまうのを鋭敏に察知して常にそれを逃れようとするからだと思う。例えば、スー・チーという人はおそらく、実際にもこの映画の現代のパートに出て来るような人なのだと思われ、だからこそホウ・シャオシェンは、自分が持っている「情」によって何かを掴む力では捉え切れないこの女優を(そしてこの女優が生きている台湾の都市部の「現在」を)、しくこく追いかけつづけているのだと思われる。(しかしそれはやはりしばしば、おっさんが無理して若い女の子を、「現在」を、理解しようとしているような「無理」がみえてしまったりすることにもなる。それはそれで感動的でもあるのだが。)
しかしこの映画では全体として、「型」に負けてしまっているようにぼくには思われた。その原因は、この映画を構成している三つのパートが皆「短編」であることからきているのではないか。ホウ・シャオシェンをもってしても、短編だとどうしても「纏めよう」という意識が前に出てしまうのではないか。三つの時間、三つのスタイルを見せるなんていう小細工をせずに、最初のパートだけで押し通して一本つくったとしたら、凄い映画になったのではないか、と、ぼくには思われて、惜しくて仕方がない。(でも、この映画の最初の二十分くらいは、そこだけを取り出しても充分過ぎるほどに素晴らしい。)
●関係ない話。「タモリ倶楽部」はいったいいつから放送しているのだろう。ぼくが高校生の頃、八十年代前半くらいの時期は、深夜番組がとても盛り上がっていた。今の深夜番組は、ゴールデンへ進出するためのパイロット版みたいになっているけど、当時は、昼間やゴールデンの時間帯とはまったく切り離された独自のオルタナティブな世界が、深夜枠で展開されていた。当時、深夜番組が最も充実していたのが圧倒的にテレビ朝日で、月曜から金曜まで、それぞれに方向性の異なる、しかしそれぞれ充実した番組が組まれていた。そしてその当時から既に、「タモリ倶楽部」は別格といっていいような独自の存在感があり、長寿番組のような風格があった。
今日の「タモリ倶楽部」のテーマは「脚立」だった。いったい、「脚立」をテーマにしてバラエティ番組を一本成立させてしまおうなどという、大胆でクリエイティブな企画が、テレビの世界で他にあり得るだろうか。しかも、脚立を使ったコントとかではなく、ちゃんと脚立をつくっている会社の人を呼んで、様々な種類の脚立とその使用方法を詳しく紹介する、という内容なのだ。(しかもこの内容でゲストが、インパルス、眞鍋かをり伊集院光パラダイス山元という、どう考えても無駄に豪華で、人数が多過ぎる配置になっているのだった。)さらに凄いのは「ソラ耳アワー」で、何故このコーナーが、今でもまだつづいているのかさっぱり分らない。深夜とはいえ、メジャーなキー局が製作し、全国区の有名なタレントが出演するバラエティ番組で、こんなにやる気もなければ面白くもないコーナーが長いことつづいてしまっているのはどういうことだろう。(タイアップとかもまったく絡んでなさそうだし。)惰性という領域をはるかに越えたこの異様な持続は何に由来するのか。おそらく、いまさらやめるのは「面倒だから」という理由で続いているのだろう。生き馬の目を抜く資本主義の利権が集中するテレビ局において、これは奇跡のようにことではないだろうか。