●慣れない旅行の準備と、旅行に出る前に書いておかなければいけない原稿があるのとで、ここ二、三日何かと忙しい。原稿を書き始めると、入り込んでしまって、時間も飛んでしまうし、旅行に行くことなど忘れてしまう。集中が途切れて、はっと割れに返って、あっ、あれもしておかなくちゃ、と慌てることになる。出かけている時間はないのだけど、旅行に行く前にDVDを返しておかなくてはいけないので、新宿のツタヤまで行く。(電車のなかでも原稿を書く。)そこで『冬冬の夏休み』の中古ビデオを買う。そういえば、ホウ・シャオシェンの新作が今、劇場にかかっているんだった。
●今、書いている原稿とも関係するのだけど、小島信夫が亡くなって、『寓話』を読み返した時から、「手紙」というものが気になっている。前にも書いたけど、『寓話』の登場人物は皆、誰かについてずっと考えている。考えているうちにその「誰か」は、実在する人物であるというよりも、その考えている人物のなかで、独自の存在をもった別の者へと育ってゆくようですらある。そして、その「ずっと考えていたこと」が溢れ出すように、考えていたことを別の誰かへむけて長い手紙に書く。誰かについて考えたことを別の誰かに(あるいはその当人に)向けて「伝えたい」、という気持ちが手紙を書かせる。しかしそれは、決して最初に「伝えたい」があるのではなく、長い時間自分の内部に留められ、孤独に考えつづけられ、育てられたものが、ある時ふと溢れ出るように、誰かに向けて「伝えたい」という感情になり、それが手紙という形になる。手紙は、日記や、あるいはもっと一般的な文章と違って、明確に「宛先」があり、書く人はあらかじめそれがその人によって「読まれる」であろうことを予想し、期待しつつ書いている。もっと極端に言えば、それが「書かれている」のと同時に、書かれたそばから、「想像的な誰か」によって読まれているという感覚、つまり、書く事が、そのまま「読まれていること」であるかのような感覚さえ、手紙を書く人のなかに生じさせるのではないだろうか。だから、書かれた手紙は、たとえ投函されなかったとしても、ただ書かれたというだけで、それを書いた人に一定の満足を与えるのではないだろうか。そのようにして書かれた手紙を、その宛先ではない「私」が読む時、そこには独特の感触が感じられる。『寓話』を読み返すことで、手紙というものを、とても面白く感じられるようになって、例えば、以前はパラパラと部分的に拾い読みするだけだった『セザンヌの手紙』なんていう本を熱心に読み込んだりしているのだった。