●『集中講義・精神分析』(藤山直樹)によると、精神分析というプラクティスは精神分析によってしか学ぶことが出来ないもので、あらゆる分析家は、自分以外の別の分析家による分析を長年受け続けることによってのみ分析家となり得るという。筆者が分析家を志したのが三十歳くらいで、分析家となったのは四十九歳であるそうだ。つまり、精神分析とは、そのくらい長い時間を必要とするディシプリンである、と。これはほとんど、職人技の伝承に近い何かであろう。だが、歴史上唯一、他人の分析を受けずに分析家となった人がいて、それがフロイトである。なぜなら彼は精神分析創始者であり、最初の分析家であって、彼より前に分析家は一人もいなかったから。フロイトは、自分自身の夢を自分で分析することを通じて精神分析という手法を発見する。しかしそこにも、擬似的に分析家の役割をした人物がいた、と。
《自己分析。夢を見ては考える。フロイトは徹底して具合が悪かったから、徹底して考えていき、その考えたことをフリースに書き送りました。フリースから届いた手紙はフロイトが全部捨ててしまって残っていませんから、フリースがフロイトにどういうかかわりをしたかはわかりませんが、おそらくフリースはフロイトの本当の気持ちとか、そういうものにちゃんと目を配ったような人ではないと思います。どちらかというと、いるのかいないのかわからないような存在だったのではないか。つまり、フリースがまったくいなかったらそうい内省は進まなかったかもしれませんが、しかし、だからといってフリースを当てにしてどんどんアドバイスをもらったりするような関係ではなく、非常に遠いけれども一応存在があるという、そういう状況のなかで内省が進んでいきました。》
このような状態は、患者がカウチに横たわり、分析家は患者の視界の外にいて声だけで患者に介入するという、精神分析の「場」のあり方に近いと筆者は言う。患者は、そこに分析家という他者の存在を意識しつつ、実際には目に見えていない「誰か」に向けて語り、それに対する解釈が「声」として返ってくる。他者の存在が意識されつつ(他者へと向かう自分の気持ちが意識されつつ)、その姿は現前せず、他者からの返答であるはずのその声は、時として自問自答と混同されるかもしれない。フロイトは、遠くにいる(現前しない)フリースの存在を意識しつつ、フリースという存在に向けて(フリースという他者の存在に転移-依存しつつ)、しかし、そこからのめざましい返答は期待せず、半ば自問自答のように手紙を書く。とはいえ、フリースは実在するから、たんなるフロイトの自問自答とは異なるフリースのリズムによって返事をよこし、フロイトの思考に(現前しないまま)介入する。《フロイトはそんなことは何一つ書いていませんが、このフリースとの体験をベースにして、おそらく何かを練り上げていったと思います。》患者にとって分析家は、フロイトにとってのフリースのように、いるようでいない、いないようでいる存在-他者として機能している、と(フロイトは生涯で何万通という大量の手紙を書いたそうだ、よって、手紙と精神分析とは形式的に近いものがある、と)。
つまり、精神分析という、一対一の関係によって作動する特異なプラクティス-技法には、そもそも、フロイトとフリースの関係という、いわば個人的な関係が大きく響いており(その固有性-偶発性に依っており)、その関係の形式化され洗練された形での反復とさえも言えるのではないか。だからこそ、あらゆる分析家は、その創始者であるフロイトのテキストを読む必要がある。
《基本的に自然科学は最先端のペーパーさえ読んでおけばいいんです。医学にしてもかなりそうです。パーキンソン病というのは一八二〇年代にパーキンソンという人が見つけたものですが、パーキンソンがパーキンソン病を見つけた論文など誰も読んでいないわけです。読まなくていいし、L-DOPAという薬があって、最近十年ぐらいのガイドラインがあって、新しい文献があれば治療はできるんです。つまりパーキンソンの古典というのはあまり意味がないんです。(…)だけど精神分析フロイトを読まなきゃできません。》
《一人の人が精神分析家になるということは、もちろん誰かに学んでその人みたいになっちゃいましょうと言ってなることもできるかもしれませんが、臨床というのはそれでは絶対できないところがあります。どうしても一人で考えて分からなくなって悩んで、「うーん」というときに、どの臨床家も結局創始者であるわけです。一人一人が実はオリジナルに自分というものをつくらなきゃいけないんです。その時にやっぱりフロイトが非常に参考になるんですね。本当の創始者ですから。何でこの人はこんなふうにつっかえたのか、何でこうやってそらすのか。フロイトの論文はいろんなためらいや、口ごもりに満ちているんです。正直に書いてあると思います。》
おそらく、今日の目から見れば、フロイトの書いたことはいろいろと古くなってしまっていたり、あるいは、明らかに問題があったり、間違っていたりするところも多々あるのだろう。それでもなお、フロイトを読むことに意味があり、フロイトを「読まなければならない」としたら、(それが「聖典」として位置づけられているからではなくて)そのテキストに、それ以前の人には考えられなかった、まったく新しい知の形式を練り上げていった思考のプロセスが書き込まれているからであろう。つまり書かれていること(要約可能な内容)以上のことが書き込まれている(ということは、書かれている内容以上のことを、それこそを、読み取らなければならないということでもあろう)。そして、そのプロセスを、一人一人が、それぞれのやり方で改めて生き直してゆくことによってしか、分析家となることができないということであろう。だからこそ、最新の成果だけを要領よく学んだり、最新版をインストールしたりすれば、それで済むということにはならない、と。
精神分析のはじまりを告げるフロイトの『夢判断』は、1900年に出版されて1910年までの十年間で六百冊しか売れてないそうだ。でもそれは、六百冊で十分だということだろう。その十年間で、ユングフェレンツィアブラハムといった第一世代の分析家となる人たちがフロイトのところに集まってきて、1910年には国際精神分析学会が出来て、精神分析という革命的な知の形式の土台が築かれる。六百冊売れれば、それだけのすごいことが起こり得る。