●「paint/note(http://d.hatena.ne.jp/eyck/)」のeyck氏が、ぼくの展覧会についての詳細なレビュー(http://d.hatena.ne.jp/eyck/20050506)を書いて下さっていて、とてもありがたいです。多くの美術家は、「批評」以前の、単純な「感想」や「反応」というレベルの言葉にさえ飢えているというのが現状で、eyck氏のような詳細なものでなくても、作品から受けたちょっとした「印象」のようなものでも、聞かせてもらえると嬉しいです。批判や悪口でさえ、なにも反応がないよりはずっとマシなので。もっとも、「俺は前々からお前が気に入らなかったんだ」というような内容しか見いだせないような、たんに悪意だけしか感じられないような言葉は、腹が立つだけなので、聞いているフリをしていても、全く聞いていなかったりもしますけど。
●eyck氏のレビューに対する反論などでは全くないのですが、eyck氏が書いている、ぼくの作品から受ける《ある種の「苦しさ」》という言葉に、ちょっと引っかかりを感じてしまいます。と言うのも、ほくはよく人から、ぼくの作品を観ると「絵画って難しい」と感じる、みたいなことを言われてしまうことが多いので。これがたんに、ぼくの作品がいまひとつ「上手くいっていない」ということを言っているのか、あるいは、ぼくのような作品をつくっていても報われることが少ない(あまり評価されることもないし、売れないし)のに、あえてそんなことをするのは大変でしょう、という意味なのか。それならば、まあ、ぼくも自分の作品が100%上手くいっているとは思わないし、事実として、生活は厳しい上に先の見通しも全く立たすに「大変」ではあるのだから、その言葉に特に引っかかることはないのだけど、ぼくの作品自体に、人に、難しいだとか、大変だとか、苦しいだとかいう印象を与え、そのような言葉を発しさせてしまうような、何か鬱陶しく重たいものがまとわりついてしまっているのだとしたら、それは深刻に考えなければいけない問題なのだと思えるから。ぼくは、作品というものがたんに感覚的な歓びや心地よさだけを追求するものだとは考えていないけど、ただ、基本的には感覚的な歓びや快楽を肯定するもので、そこにこそ最も大きな価値があるとは考えていて、その間に差し挟まれる介在物としての「たんにそれだけを追求するものではない」という感覚(保留と言うか担保と言うか)が、鬱陶しく無駄な「言い訳」のようなものを、作品の周囲にまとわりつかせ、ある「防衛的」な壁を張り巡らしてしまっているとしたら、それは大きな問題なのだと思うので。作品が、ある程度以上に複雑であること、充実したものであることは必要だと思うし、それによって作品が、簡単に見て取ることの出来ない、ある「観づらさ(難解さ)」をもつことは必然的であるとは思うのだけど、その「観づらさ」が、そのまま感覚的な歓びに繋がってゆくのでなくて、その作品の正当性を保証させるための「言い訳」のようなものになってしまっているとしたら、それは本当に鬱陶しく、「苦しい」感じを人に与えてしまうのだろうと思う。