●今日じゅうに済ましてしまおうと思っていた事に、結局、全く手をつけることなく、一日ただだらだら過ごしてしまった。昼間、つけっぱなしのテレビで保坂尚輝がつくっていたピーナッツご飯(米と一緒にピーナッツ入れてを炊き込む、というだけ)を夕食のときにやってみた。炊いている時、これはもう絶対に美味しいに違いないという「匂い」がしていて期待したのだが、食べてみると、ピーナッツを入れ過ぎたせいか、ちょっとしつこ過ぎると言うか、重た過ぎる感じだった。ただ、(テレビでも言っていたが)ご飯がもちもちっとして美味しくなることは事実で、香りもいいし、だから、あまり美味しくない米を美味しく炊くにはいいのではないかと思った。
●今日はもう本当に何もする気力がなくだらだらしていて、つけっぱなしのテレビの前に横になって、日曜の昼間のどうでもいい番組を眺めたり、そのまま眠ってしまったりしているうちに一日が過ぎた。80年代アイドル3人(早見優堀ちえみ松本伊代)の同窓会というような、本当にどもでもいいようなやる気のない番組をやっていて、このユルさが今日のぼくの気分にやけにぴったりとハマっていたのだった。何と言うのか、この3人は、同窓会に来る子持ちの女の子ってこういう感じだよなあ、というそのままで、昔からよく知っていて、ある濃厚な時期を共に過ごしたという親しさはあるのだけど、今はそうしょっちゅう会っているというわけではない、という相手と会うという時の、ちょっとした高揚感と無防備さが入り交じったような空気のなかで、「いろいろとあった過去」を共有している人に対してしか許されないような遠慮のなさ(他者に対する緊張のなさ)ではしゃいでいて、しかしもう若くはないので「はしゃぐ」と言っても弾けるような感じではなく、そのテンションはきわめて低く、ある(ギラついた)「過剰な思い」のようなものが抜けた跡でちょっとした高揚感だけが残ったという、ユルユルな感じなのだった。ゲストで招かれた嶋大輔なんかも、昔は怖かったのだろうけど今ではすっかり肉のたるんだいい「おっちゃん」という典型みたいで、その「おっちゃん」が、昔から知っている3人の「おばちゃん」たちから突っ込まれてタジタジになる、というような場面に、こんなにも「癒され」てしまう自分というのは一体何なのだ、と思いつつ、画面を眺めるのだった。ここにあらわれている時間は決してシビアな「現在」ではなく、かと言って、既に一定の年齢を越えた身体は若い頃(過去)の「濃さ」に戻ることには耐えられず、どちらでもないユルい時間が「この場」でだけ成立する。番組の終盤、カラオケでシブガキ隊がかかり、嶋大輔がみんなからノセられてついつい、当時反目していた(今もしている?)ヤッくんのパートを唄ってしまい、それを周囲からはやし立てられ、嶋大輔が憮然として(だがここで起こっている全てのことを実は心地よく受け入れているように見える)いるというような場面で、松本伊代が(全く何も考えてなくて自動的に口から出たという感じで)「時間が解決するのねー」と発言した時に、何とも言えない、痛みと甘さが混じったような、幸福感のようなものを感じてしまうのは、よっぽど今のぼくが疲れているからなのだろうか。若い頃には、このようなユルさに自分が肯定的な感情を持つようになるとは、思ってもいなかったのだが。