清水崇『稀人』

清水崇『稀人』をDVDで。作品として上手くいっているとは到底思えないけど、清水監督の(とにかく小ネタを連発して繋いでゆく)『呪怨』とは全く異なる(意外な)別の才能がかいま見られるという意味で、とても面白かった。この映画はホラーであるというよりエロ映画で(つまり監督の関心は明らかに恐怖よりもエロの方にあって)、それも、男性が自らの性的なファンタジーのなかでじくじくと腐って破綻してゆく、というような映画なのだと言える(脚本を書いた小中千昭は、そういう映画のつもりはあまりなかったのかも知れないけど)と思うが、まだ若い清水監督が、この何ともぐずぐすしただらしない(そして凄くエロい)感じを出せるというのが驚きなのだった。この映画を観ながら、この感触は何かに似ているとずっと思っていたのだが、終盤近くになって、これは松浦寿輝の世界に近いのだ、と気づいた。そう気づくと、どこもかしこも松浦的な細部に満ちていることが分かる。以前、松浦氏の『花腐し』を、竹中直人が監督して映画化するという話があったと記憶しているのだが、その組み合わせではどう考えたって最悪の映画になるとしか思えなかったのだが、それがもし、清水崇監督、塚本晋也主演だったら、充分にあり得ると言うか、かなり面白くなるのではないかと、この映画を観ていて思った。
この映画の良さは(というか、清水監督の「意外な」才能は)、何といってもキャスティングの成功と、ロケハンのセンスの良さにあるのだと思う。これで脚本がもう少し練れたものだったら、かなり面白い映画になったのではないだろうか。(この脚本は、要素を詰め込みすぎてまとまっていないと思うし、何より、説得力が全くないのに妙に堅い口調で語られる思弁的なセリフやナレーションは、駄目なアニメーションみたいで意味がないし邪魔だと思う。特に、清水監督は、俳優にセリフを喋らせるのがあまり上手くないし。)
まず女の子(宮下ともみ)がエロい。この女の子が最初に全裸で登場するシーンまでの導入部が無駄に長くて(無駄な「お説教」が多すぎて)弛緩していて、この映画は駄目なのかなあそろそろ思い始めた頃に、バーンと出てくるのが結構凄い。ただ、このシーン(裸)は「絵」になり過ぎていて、ずっとこの感じで行くと退屈な耽美に陥ってしまうと思うのだが、それから一転して、清水監督はこの女の子に、ジャバニーズホラーでよくある、地面に這いつくばった蜘蛛のような動きをさせる。この動き自体はもううんざりだという感じだし、しばしばアングラ舞踏みたくなってしまって興ざめなのだが、この女の子がやると、獰猛な小動物みたいな感じになって、「男性の閉じられた性的ファンタジーのなかのエロ」としての生々しさがあるのだった。
そして、(男性の部屋のなかに閉じ込められている時の)女の子を捉える基本的な視点が、斜め上方からの距離を取った俯瞰の映像であることも、成功していると思う。このカメラの位置は、よく言われる「幽体離脱」した時に自分で自分を観る時のような視点で、この映画の基本的な主体である男性が、その内部に自分自身を含めた「閉ざされた世界」を認識する時のアングルだと言えるだろう。自分を含めた空間を斜め上方から観る視点というのは、人が三次元空間を把握する時に作動する潜在的に構成された視点(つまり遠近法を可能にするもの)なのだと思われるが、それはあくまで潜在的に作動するもので、通常の時、人はそのような視点が頭のなかで構成されていることを意識しない。(意識が混濁した時などに「幽体離脱」のような体験として前景化する。)だから、このような視点は、「私」のものであるにも関わらず、私にとって見慣れない他者の視線のように感じられ、つまり私のなかに得体の知れない他者がいきなり侵入してきたように感じられ、だから不気味なものとして現れる。事実、この映画では、このアングルの存在こそが最も「怖い」のだ。(この視点は、カメラによって撮られた他の無数の映像と同列であるかのように挿入されながらも、誰によって、どのカメラによって捉えられたか分からず、明示され得ない、帰属先が不明な映像であるからこそ怖いはずなのに、それを携帯電話による監視映像と重ね合わせてしまうのは、説明的過ぎてつまらないと思う。)この映画では、男性の周りの世界(「女の子」や「男につきまとう女」)が狂っているのか、それとも男性の方が狂っている(実は「女の子」は男の娘で、「男につきまとう女」は男の別かれた妻である、という可能性が仄めかされる)のかが決定不能(反転可能)なままであり、この決定不能=反転可能な構造こそが、映画の世界を(男性の性的なファンタジーとして)しっかりと「閉ざしたもの」にしている。
そして、女の子を「監禁」する男性の役が塚本晋也であることも重要だ。この役は、この映画を観ている限りこの人以外にはあり得なくて、もしこの役が普通の若手俳優とか、あるいはいかにもサイコなキャラだったりしたら、まったく凡庸な「監禁もの」になってしまっただろう。この映画は、この二人をキャスティングした時点で、8割がた出来上がっていたのだと言ってもいいと思う。
●この映画はおそらくほとんどのシーンが新宿駅の周辺で撮影されていると思われるのだが、清水監督の「場所」を選ぶ(見つける)センスは素晴らしくて、撮影する「場所」さえしっかりと選択していれば、低予算、早撮り(DV撮り)でも、画面がそれほど貧弱にならないということを、示していると思う。