趣味」とか、その「偏り」とか

●「趣味」とか、その「偏り」とかいうものは、決して恣意的なものではなく、まるで「私の身体」のように、気づいた時には既にそれと共にある、と言うか、それと共にあることによってしか「私」が存在出来ないようななにものかのことだ。別にぼくは、自分の趣味や偏り(私の身体)それ自体を「表現」しようと思って作品をつくっているわけではない。作品は自己表現ではない。「普遍性」とか「強度」とかいう言葉を軽々しく使いたくはないが、「私」などというものを越え出る何ものかを作り出したいと思うからこそ、そのようなものに触れたいと思うからこそ、作品をつくる。しかし、「私」が作品を作ろうとする時(に限らず、何かをしようとする時)、私は、私がそれと共にあるしかない「私の趣味や偏り(私の身体)」を使って、それをもとにして、それと共に、何かをつくるしかない。つまりそれは自動的に「自己表現でもある」ものになるしかないだろう。もし、本気で何かをしようと思うのなら、そのために「私」に「使える」手持ちの武器は、思いのほか貧しいのだ、ということに気づかざるを得ない。(例えば、スポーツ選手が、自らの身体を「選手」として鍛え上げようとする時、観客としてそのスボーツを観ていた時に「好きなタイプ」の選手であろうとすることを一旦切断し、既に存在してしまっている自らの身体(の偏り)を意識し、それを「元手」に、選手としての身体を構築するしかないだろう。)「使える」語彙や技術や知識は、極めて限定されていて、常に足りないのだから、そのなかでどのようにやりくりして、それを越えるのかこそが問題なのだ。(例えば、多彩な変化球を操る投手にしても、その「多彩さ」によって勝負するしかないという意味で、そのようなスタイルを選択するしかないという意味で、「貧しい」のだ。)スタイルとは、ある作家の登録商標のようなものではなく、ある偏りをもった(ある「偏り」として存在する)身体が、ある偏りをもった環境のなかで、何かをしようとする時に、必然的に取らざるを得ないある「やり方」のことであり、あるいは、必然的に(結果として)そのようになってしまう、という、ある傾向のことだと思う。だから、ある一人の作家にとって(ある一つの身体にとって)、取り得るスタイルは極めて限定的なものでしかないだろう。(画家がある色材なり色彩なりを「選択」するということは、投手がどの球種を自分のピッチングを組み立てる軸とするのかを「選択」するというような意味での「選択」であり、それは主体的な選択と言うより、ある偏りとしての身体(の状態)とそのまわりの環境との関係によって、必然性に導かれて決定されるような、受動的な選択であるのだと思う。)