損保ジャパン東郷青児美術館(南仏モンペリエ ファーブル美術館所蔵

●新宿の損保ジャパン東郷青児美術館までクールベを観るために行く。(南仏モンペリエ ファーブル美術館所蔵 魅惑の17-19世紀フランス絵画展)
『出会い、こんにちはクールベさん』というタイトルで有名な、ブルジョア風の立派な身なりの二人の紳士が、スケッチのために野良着にリュックを背負っているクールベさんに向かって、頭を下げたり帽子をとったりしてかしこまっていて、それに対しクールベさんは顎(顎髭)を突き出してエラソーにしている(しかも、クールベには陽が当たっているのに、ブルジョア風の紳士の方には影が落ちている)絵で、クールベの、世界ではじめて「個展」をひらいたというような(近代的な)芸術家としての尊大な自負心を、ほとんど戯画的に表現しているような絵で、クールベの言う「現実的アレゴリー」というのがこの程度のものだったらどうしようもないというような、困った絵なのだった。実際に観てみても、これはとても変な絵で、画面の上半分は気が抜けているとしか思えないのだけど、下半分はさすがにクールベだというような充実した描写が観られる。この絵の上半分の「空」の抜け方や、画面中央にいる人物の顔の表情の生気を欠いた描写(画面に向かって左側の人物の顔はなかなか良いと思う)などを観ると、ほとんど「銭湯のペンキ絵」を連想してしまうようなもので、リアリズムの絵画のもつ「危うさ」を端的に示していると思うのだが、画面下部の、かっちりとした土の道の描写、そこに落ちる影の色の美しさ、木漏れ日の表現、そして何よりも、画面の一番手前に描かれた植物の描写は、とても素晴らしいのだ。あと、斑模様の犬に、斑状の木漏れ日が射している描写なども、難しいことをさりげなくやっていて、とても面白い。それらの充実した描写をじっくりと観ていると、何故この絵の上半分がこんな風に描かれているのか全く分からなくなる。だいたい、このあまりに大げさに演出された絵で一番充実しているのが、事のついでのように画面の隅に描かれたどうでもいいような植物の描写だというのは、一体どうしたことなのか。これは意図的にそうしているのだろうか。本当に変な絵だと思う。つまりこれは、「現実的アレゴリー」の「現実」と「アレゴリー」が見事に分離してしまっている絵だということなのだろうか。
この不思議な困った絵に対して、『ボードレールの肖像』は小さな傑作と言えるような素晴らしい絵で、近代的な文学者の肖像画としては、マネの『マラルメの肖像』と双璧をなす作品だと言える。(カタログによると、この絵は一時マネが所有していたこともあるそうだ。)全体的にやわらかな暖色のイメージによってまとめられ、部屋着を着て、閉ざされた個室で書物に向かう(内向的な)詩人の姿が、リラックスした姿勢で、あまりきっちり描きこまれないやわらかな筆致で描かれていて、そしてこの絵の小ささもあって、全体に何とも親密な空気が流れているのだが、一方で、やや緊張したような手の表情、襟元のきゅっと引き締まった描写、そしてインク壷にしゅっと立っている羽根ペンの冴え冴えとした形態などによって、全体にリラックスした親密さのなかに、一定の張りつめた緊張が漲っている。この絵でボードレールの顔の表情は、茫洋として捉えどころがないように描かれているのだが、この、(明確には表情づけられない)書物に没入する茫洋な表情によって絵が成り立つような表現をなし得た点こそが、クールベの絵が近代絵画を開いたということ(の新しさ)を示しているのではないだろうかと思う。(例えばマネが描く人物の、捉えがたい寄る辺無い表情などと共通するものがあると感じられる。)このような、明確には性格づけたり色分けしたりできないような、捉えがたい茫洋さによって表現が成り立つものこそが、近代的な作品であり、そこで表現によって生じるなにものかこそが、近代的な内面ということになるのではないだろうか。