待ち合わせの時間

●「美術手帖」12月号より、岡崎乾二郎の発言。「待ち合わせの時間」
《例えば作品が完成するのはどの時点か。ダンスや音楽が始まり終わるのはどこなのか、その時間枠を決めるのがケージの考えた楽譜の役割だった。一言で言えば、それぞれが異なる時間=生活リズムを持っている主体、生産過程が出会うための待ち合わせの時間を決めてやるのが楽譜だということです。例えば建築をつくるのであれば、組み上げた骨組みを乾燥させるのは半年、材料の木を育てるのは300年、屋根を葺くのは秋でないとだめ、一方で土壁は練った土が乾かぬうちにすべて仕上げなければならないとか、まったく異なる時間スケールで進行している様々な生産工程、複数の時間を同期させていかなければ家は建たない。こうした同期の方法を考えたのがケージだと思います。イベント=出来事というのは、こうした出会うはずもない、複数の時間的進行、生産過程が出会う事、そのぶつかる瞬間ですね。》(岡崎乾二郎×桜井圭介「なぜあえて、それをダンスと呼ぶのか」)
●もうひとつ、気になった部分。
《そもそも技術とは、快楽といったん切断されることで、初めて成り立つものだから。プロの料理人は気分が憂鬱だろうと悲嘆にくれていようとし食欲が減退していようと、常に美味い料理をつくる。それが技術でしょう。実感に基づかないと成立しないような技術は技術ではない。》(同上)
技術を快楽(実感)と一旦切り離して考えるのは、とりあえずは正しく有効なことではあると思う。しかし、このような言い方は「技術」という言葉にやや堅くて固定されたイメージ(予め決定された生産過程)を付与してしまいはしないだろうか。「つくり手」としての快楽はまず何よりも、技術の習得とその変更(自分なりの工夫)の過程のなかにこそあるのではないだろうか。《むしろ技術によってこそ感覚、実感が遅れてもたらされる》というのは全く確かなことなのだけど、この言い方は分かりやすすぎてちょっと微妙にも思える。技術を習得し、そしてそれを改良してゆくことを動機づけるのは、まさにそれによってその技術を扱う者の体感が動いてゆく(ことが自覚される)ことの歓びで、だから技術の習得の過程は決して禁欲的な修行のようなものではなく、むしろかなり「淫ら」な感じのことではないだろうか。(勿論、単調で面倒臭く、辛くさえある反復トレーニングのようなものは不可避なのだが、その単調さに耐えることを支えているのは、その下で動いている「淫ら」なものなのではないだろうか。)つまり、「つくり手」が「つくる」という行為を行うとき、その行為は「美味しい料理をつくりたい」という欲求によってよりもむしろ、「美味しい料理をつくるための技術を習得し改良する過程(において「体感」が動くこと)」による「歓び」への欲求に駆動されている、ということである度合いが強い傾向があるように思う。(つまりやっぱり、技術は実感=体感と切り離せない、のではないか。)それだからこそ、技術が(単純な一次的欲求に基づいた)快感とは切り離され得る。そしてそのことは、「つくり手」は下手をすると、必要以上に技術そのもの(「生産過程」におけるリアル)に引っ張られ、「美味しい」という快楽(出来上がった作品としてのリアル)を取り逃してしまいがちだったりもすることをも意味する。つまり岡崎氏の言うように《作り手と受け手の快楽はそもそも簡単には接続できない》ということになるのだが。