動物についての、二つのイメージ

●動物についての、二つのイメージ。
(1)《この『反時代的考察』の出発点として、ニーチェは、動物、子供、大人によってそれぞれ異なる瞬間の生き方を選んだ。「すぐさま忘れてしまい、瞬間瞬間にじっさい死んだり、夜や霧のなかに消えたり、永久に消滅したりする」動物が、「歴史のない」生涯の最初のイメージを喚起するとすれば、子供は「盲目の平穏のうちに過去と未来の柵のあいだで遊んでいる」のだから、未だ「結合すべき過去を少しも」持ち合わせていない生の感動的な光景を大人に提供するといえる。ところが大人にとっては逆に、「ふいに現れてはふいに消え、あとにも先にも何もない瞬間が、スペクトルの姿で、その後の瞬間の静寂を乱しにやはり戻ってくる。絶えず一枚一枚と時のローラーから剥げ、落ち、舞い散り--そしてすばやく戻ってきてはわれわれの上に襲いかかる。すると大人は『私は憶い出す....』という。」》(クロソウスキーニーチェの『悦ばしき知識』の基本テーマについて」)
(2)《「あなたはなぜ僧侶にならなかったの。僧侶にはどこか獣じみたところがあるわ。ほかの人なら自分自身のあるところに何もない。この空虚さ。着物にまでその臭いのまつわりつく、この隠和さ。そして身に起こったことをほんのしばらく積んでおいてすぐに、篩みたいに素通りさせてしまう、この空虚な隠和さ。ほんとにこの隠和さは篩にでもすればいいのだわ。あたし、それを悟ったとき、とてもうれしかった.....」》
《「(略)結局のことろ、人は出来事のようなもので、行為する人格のようなものではない、とそれだけのことなのね。人は誰でも、出来事があるだけなのでしょうね。それでもひとつにまとまっていて、ちょうど窓のない壁に四方を囲まれたその内側のようにひとつの空間を形づくって、黙って閉じているのでしょうね。その空間のなかではあらゆることが起こるけれど、でもひとつの空間からもうひとつの空間へ流れこむことはないのだわ、まるで思いでの中だけの出来事みたいに....」(略)「....あなたは何を考えているの....あたしは思うのよ、それほどまでに自分をなくしたものに、人間ならば、なれるものじゃない、そんなふうになれるのは獣だけ....どうか助けて、このことになると、なぜあたしはいつも獣のことばかり考えるのかしら.....」》(ムージル「静かなヴェロニカの誘惑」)