●昨日読んだ『not simple』(オノナツメ)からは、面白いとかつまらないとか言う前に、どのようなひっかかりも得られなかったのだけど、読んでいる時に『ビフォア・サンセット』(リチャード・リンクレイター)という映画のことをちょっと思い出していた。たんに、偶然に出会った二人が、何年か後に、出会ったのと同じ場所での再会を約束して別れ、それが結局叶わない、という所が重なるというだけのことなのだが。
ビフォア・サンセット』はそんなに面白いという映画ではない。一風かわった映画で、狙いは面白いけど、結局「狙いは面白い」という以上のものにはならなかった映画、という感じだ。『恋人までの距離〈ディスタンス〉』という映画(ぼくはこっちは観ていない)の続編で、九年前、電車のなかで偶然出会ったアメリカ人の男(イーサン・ホーク)とフランス人の女(ジュリー・デルピー)が、ウイーンで途中下車をして一日を共にし、夜明けと共に別れ、確か三年後だったかに、同じ場所での再会を約束して別れた、というところまでがプレ・ストーリー(『恋人までの距離〈ディスタンス〉』)だ。男は約束の場所まで行ったのだが女には会えず、その時の経験をもとに書いた小説がベストセラーになり、ヨーロッパでも発売され、そのプロモーションのためにパリを訪れている。パリの書店でのプレス相手の会見というのか、懇親会みたいなものがあって、その場に女がふとあらわれる。この設定があまりにベタなのだけど、まあそれは良いとしよう。男にはアメリカへ帰る飛行機の時間の都合があり、あまり時間の余裕が無い。ちょっとそこらのカフェで十五分くらいなら、という話になって書店を二人で出る。そしてこの「ちょっと十五分」が、徐々に引き延ばされてゆく。八十分ちょっとの短い映画なのだけど、ほぼリアルタイムというか、物語の時間と上映時間が重なる(微妙な省略とかはあるのだけど)。つまり、徐々に引き延ばされる時間の有り様がそのまま、映画の時間となる。
九年前の共有された濃密な経験があり、その後の九年というそれぞれバラバラの時間があり、そして約束した再会の場所でのすれ違いもあり、それらの様々なお互いの思いが、ほんの十五分という時間の前で戸惑い、その戸惑いをやりすごすためであるかのように、二人は表層的な話題を喋り続ける。喋ることによって徐々に強張りはほぐれ、互いの事情も理解し、それによって九年という時間の大きさ、溝の深さも改めて自覚される。会話は表面をなぞるように軽やかに流れ、しかしそこにちょっとしたズレが差し挟まれ、互いの気持ちの探り合いの差し引きがあり、嘘や駆け引きがあり、感情の高ぶりや退潮があり、その会話をつづけるなかで、男はあれこれ理由をつけて空港へ向かうことを遅延させつづけ、その遅延によって映画の時間の持続が保証される。(男はいつ、何をきっかけにこの会話に踏ん切りを付け、空港へ向かうのか。それとも、男はアメリカの妻子を捨て、女との関係を選ぶのか。それを女は受け入れるのか。あるいは、一晩か二晩くらい帰国を遅らせるという、もっとも常識的、かつありがちな、つまらない「大人のやり方」に着地することを選択するのか。だとしたらそれを女はどう思うのか。何れにしろ、男がその決断を下すために残された猶予の時間のリミットは、刻々と近づいている。つまりこの映画の時間は「どこまでもつづく」ようなものには原理的に成り得ない。この映画では、九年ぶりの出会いという特権的な出来事が描かれるだけでなく、それを、現実的、世俗的な時間のなかにどのように「着地」させ得るのか、という問題も同時に含まれてある。その「結果」までは描かれないのだが。このような事実が、映画で描かれている二人のやり取りの裏側に常に貼り付いていることで、遅延され、宙づりにされた時間に、サスペンスフルな緊張を漲らせる。)
この映画のキモは、二人の再会が、約束された時間、場所とは異なった場所で、(男にとっては特に)唐突になされたところにある。この二人のこの再会(この時間)はむしろ、約束の場所で出会えなかったことによってこそ、可能になったとさえ言えるだろう。『not simple』においても、約束(あるいは期待)は常に果たされず、裏切られ、はぐらかされ、ずれ込み、あるいは先送りされているうちに消えてしまう。しかしそれはあくまで、それによって物語を転がしてゆくための技法(作者のよる操作のやり口)にしかみえず、(陳腐な、クリシェと化した言い方ではあるけど)出会い損ねることにおいて出会われるような出来事(瞬間)は、ほぼまったく作品の上に到来しない。(ラストシーンがかろうじてそうだと言えるかもしれないが、あれを最後にもってくるのは、あまりに予定調和的ではないだろうか。全体的に、この『not simple』の構成の複雑さからは、作者によるご都合主義的な操作性ばかりが強く感じられてしまう。)
●『ビフォア・サンセット』という映画がいまひとつ面白くないのは、この二人の再会、この二人のズレの有り様を、ほぼ「会話」だけによって(と言うか「会話劇」としてだけ)浮かび上がらせようとしている点にある。何と言うか、あまりに優等生的な会話劇のシナリオに沿って、それのみを根拠としてつくられているという限界がすごく感じられてしまう。あと、なによりがっかりしてしまうのが、ジュリー・デルピーが「こんなになってしまった」ということなのだ。たんに歳を取ったということではない。何と言うのか、すっかり「ハリウッド風」になってしまっているのだ。いわゆるジュリー・デルピー的な魅力的な表情を、この映画ではほんの一瞬も観ることができない。(しかしDVDの特典映像のインタビューでは、ちらちらと「面影」が感じられたので、それはこの映画でだけのことかもしれないけど。)この映画で、イーサン・ホーク(すごく趣味の悪いシャツを着ている)がジュリー・デルピーに向かって「痩せたね」みたいなことを言って、それに対して「前は私のことをブタだと思ってたのね」みたいに返すシーンがあるのだけど、このシーンを観て、「痩せた」という言葉が必ずしも褒め言葉ではないことを痛感するのだった。何と言うか、いかにもアメリカのエリート風の、つまらない、(身体を知的に制御出来ているということを主張するためであるかのような)「痩せた」痩せ方なのだ。それに、演技がすっかりハリウッド風で、全ての身振りに合理的な意味がある、みたいなアクターズスタジオ的な説明的なもので、あーあ、とか思ってしまう。
●『ビフォア・サンセット』という映画を媒介にすることで、多少でも『not simple』に対する引っかかりが掴めるかと思ったけど、全然見つけられなかったみたいだ。
●この映画をDVDで観たのは去年の11月か12月で、だから細部の記憶は多少怪しいところもあるかも知れない。