●市役所に行くには川沿いの道を通る。昨日の雨で、川は、茶色い濁流が遊歩道に届きそうなくらいに水かさが増してしていて、そのせいなのか、あたりには異常なくらいの草いきれというか、青くさい匂いが漂っていた。この辺りに住み始めて二十年になるけど、この川がこんな状態になっているのをはじめて見た。やはり今年の天気はかなりおかしい。凄い量の水があらゆるものを押し流している感じ。水が引いたら、どんな感じになるのだろうか。電車に乗ったら、今日もダイヤがメチャクチャになっていた。
●ネットカフェに入ると、結局五時間も居てしまって、帰るのが夜中になった。ほとんどの時間、YouTubeを観ているわけだけど、普段あまり音楽を聞かないのに、YouTubeだと延々ずっと音楽モノばかり観てしまう。
音楽モノとかいっても、六十年代、七十年代のアイドルの映像とかを観ているわけで、ぼくは八十年代以降のアイドルにはほとんど興味がないので、それはだいたいキャンディーズで終わることになる。(八十年代アイドルの「現在」については、テレビに出てる同年代の人、という意味での興味はある。)キャンディーズまでが七十年代的な感じで、ピンクレディーは七十年代と八十年代との過渡的な感じで、松田聖子中森明菜になって、完全に八十年代的な感じになる。小学校の高学年くらいの頃にピンクレディーは爆発的に流行っていたし、八十年代アイドルにしても、「ザ・ベストテン」とか観てたから、リアルタイムでは普通に受容していたはずだけど、今となっては、そこへの記憶や印象や関心がほとんど残っていないくて、関心は、キャンディーズから一気に椎名林檎宇多田ヒカルにまで飛んで、その間は(いわゆる「アイドル」に関しては)ぽっかり空白な感じだ。ただ、ぼくは六十七年生まれなので、七十年代アイドルの感じをリアルタイムで、そう明確に記憶しているわけではなくて、明確に印象があるのはキャンディーズくらいで、ということはつまり、キャンディーズ体験がトラウマのように刻まれたことが、ぼくに八十年代アイドルの受容を困難に(表面的なものに)させていた、ということなのだろうか。というか、明確には憶えていないような時期に接していたものこそが、実は深く刻まれている、ということなのだろうか。(七十年代のアイドルは露骨にエロい。つまりそれは、「男性の性的な視線に捧げられた身体」という感触を隠そうとしていない。それが八十年代になると、「男性に性的なファンタジーを与えるための媒介」といった(物語的)ヴェールが被せられる感じに変化する。それは、ピンクレディーの「ペッパー警部」から「UFO」への変化に端的に感じられる。ただ、ピンクレディーの場合は、男性の性的視線へと向けてつくられたものが、意外にも結果として「女の子」の方に受けてしまったという事情があるのだと思われるが。男性が女性のイメージ-アイドルに惹かれるのと同様に、女性もまた女性のイメージ-アイドルに惹かれる。女性とオカマに受けの良いアイドルの系譜というのが存在する。ピンクレディー松田聖子松浦亜弥、等々。あるいは「セーラームーン」とか。ここにはまた、まったく別の感触があるのだろう。)
あと、岡村靖幸の映像をかなりたっぷり観ているうちに、木村拓哉が、岡村靖幸の中途半端なモノマネみたいにしか思えなくなった。声が出なくて、キレのわるい(そして細身の)岡村靖幸、みたいな。格好つけようとしてキメにはいる感じとかがそっくりに思えた。あと、かなり画質が悪いもので、いつの、どんな状況での映像なのか分からないのだけど、太って、髪型とかも村上龍みたいな感じになった岡村靖幸が、かなり苦しい感じで声が出ていないにもかかわらず、往年の「岡村ちゃん」な感じで無理矢理にシャウトしつつ、キャンディーズの「年下の男の子」をギター一本で歌い切って、最後に、(かなり苦しそうだったにもかかわらず)いかにも「岡村ちゃん」な感じで、してやったり、みたいなえらそうな感じでポーズをきめる映像があって、それを観て、いろんな、複雑な意味で感動した。自分(の伎倆)に対する自分のイメージや自負と、今の自分の身体が実際に出来ることとの間にギャップがあり、しかし、そのギャップをないものとして強引に突っ走ってしまうこと、そこに生まれる何か。