●電車に乗っていたら、隣りに座っていた、まだ小学校へ上がる前くらいの年齢の男の子が、母親にしきりに「この電車いままで脱線したことある?」「この電車ぜったい脱線しない?」「脱線したら全員死ぬ?」と何度も繰り返ししつこく訊ねていた。ちょっとハンスの馬車を思い出させるイメージだ。それが何だったのかは分からないけど、おそらくこの子に、電車-脱線-死という三つが分ち難く結びついたイメージを刻み付けた出来事が何かあって(最近、大きな脱線のニュースとかがあったのだろうか)、その出来事の生々しい感触が、母親にしつこく訊ねるという行為になっているのだろう。ただ、しくこく訊ねてはいても、そこには恐怖の感情は感じられず、むしろ脱線や死という言葉を反復することの楽しさを方を強く感じさせるような遊戯的な口調ではあった。遊戯的ではあっても、それをしつこく反復させるということは、その出来事の感触がまだ、反復行為をさせるだけの力動を生む強いものとして残っているということだろう。
ここで、最初の感触よりも、純粋に言葉を反復させることの口唇的なよろこびが勝ってしまえば、あるいは、母親に話しかけるといった対象関係の作動だけになってしまえば、「脱線」や「死」という言葉は、象徴的な連鎖のなかでズレてゆき、他の言葉と交換可能になり、彼の問いかけは、より遊戯性、融通性を増すのだろう。ただ、今日見た男の子の場合は、まだ強く「脱線」という言葉にこだわっている様子で、この子にとって「脱線」(と発音すること)こそが問題の核心なのだと思われた。
言語と意味との関係において、ある経験や出来事と分ち難く結びついていて、つまりその言葉の意味は、ある特定の出来事そのものである、という段階があり、しかしそれは、事実上ほとんど失語状態のようなもので、その失語状態が、ある程度は象徴的な言語体系との接点を見つけ、妥協の上でようやく発語が可能になるのだろうが、そこで、出来事と何かしらの接点を得て、ある程度の妥協の上で獲得された言葉は、まさに「それ」でなければならない交換不可能なものとしてあるだろう。つまりそれは、ある固有の経験(それを経験した時の身体の作用の全て、脳の演算の全て)を言語の体系に向けて縮約(縮減)したものではあっても、かろうじてその経験の固有性との繋がりをもつ。しかし、言語の体系は言語の体系であり、経験は身体の体系上で行われるのだから、本来そこに接点はなく、翻訳は不可能で、辛うじて見いだされた接点とはいわば短絡的な、無理矢理の、無茶苦茶な接点であって、つまり、そこには何がしかの接点や繋がりが「あるはずだ」としか言えなくて、繋がりを事後的に完全に遡行することは不可能で、つまり事後的には、確かに何かしらの接点があると「感じられる」としか言いようがない。
長嶋茂雄の言葉には、あきらかに彼の経験との繋がりがあり、そこには彼のプレーによって証明される充実した内実があるのだが、その言葉だけから、その内実へ遡行するのは不可能に近い。だから本当は、野球をやらない人が言葉の次元でだけ、その言葉を面白がっても何の意味もない。ただしかし、その言葉には充実した内実を予感させる何かは確実にあり、それを聞き取ることは可能かもしれない(かもしれない、としか言えないのだが)。「作品」を読むということは、(可能かもしれない、というきわめてあやふやな)長嶋茂雄の言葉からその内実の気配を聞き取ろうとすることに近いように思う。(作品は決して作者の内実には還元されない、それ自体としての複雑さや充実をもつが、それが何かしらの形で内実との繋がりの(の予感)なかで実現されているのでなければ、「作者との」ではなく、「世界との」繋がりが切れてしまう、つまりリアリティがなくなるのだと思う。)
ある言語化出来ない経験が、いわば無根拠な縮約と翻訳を経て言語化されて最初に出て来た「言葉」にはまだ辛うじて残っていたであろう経験との接点は、その言葉が象徴的な体系の規則に乗っ取って、整えられ、均されるに従って消えてしまうだろう(だから「作品」においては「要約」されたものはほとんど何も語らない)。だから、内実のある言葉は必然的に言語に規則を歪ませる。しかし、ただ言語の秩序を(言語の側から)歪ませても、何の意味もない。長嶋茂雄の言葉を分析して、長嶋風のフレーズをいくつも生み出すことは出来るだろうし、その遊戯牲、融通性により、より発展して長嶋自身の言葉よりも面白いものになるかもしれないが、それはたんに言葉の問題でしかなく、長嶋茂雄という内実(長嶋の技術、長嶋の経験、長嶋の身体)から切り離された長嶋的なフレーズには、あまり意味はないだろう(というか、ぼくは興味がない)。