岡崎乾二郎展について、もう少し(実は、今日、改めてもう一度観て来た)。昨日の記述に一つ間違いがあって、三枚一組が一点、二枚一組が一点、あと小品と書いたけど、その小品もあきらかに二枚一組として制作されているものだった。だから、三枚一組が一点と、二枚一組が二点、あと、ゼロ号サイズの作品ということになるのだが、そのゼロ号の作品もまた、あたかも双子的な関係をもつかのように展示されていたので、三枚一組の一点以外は、すべて二枚で一組ということなのかもしれない。で、今日、はじめて気づいたのだが(今まで何で気づかなかったんだよ、という感じだが)、岡崎乾二郎にとって、二枚一組というのは、プレゼンテーションの問題ではなく、あくまで制作プロセスの問題なのではないか、ということだ。つまり、観者への効果が問題なのではなく、作品をつくっている時に、二枚並んだキャンバスの、一方からもう一方へと「変換させ」つつ移ろってゆくプロセスが制作のためには必要で、つまり変換するという行為によって制作が発動し、その持続の力が発生し、制作そのものの動因とさえなっているのではないか。(だから、三枚一組の一点は、その制作プロセスから、ということはつまり、作品を発想する根本から他の作品とは別物なのではないだろうか。)そう考えてはじめて、作品が二枚一組であることに納得がいく。いや、これは逆の話で、はじめて二枚一組であることに(ある程度は)納得出来た作品が観られたからこそ、今まで思いつかなかったことに思い至ったのだろう。
二枚一組の作品を注意深く観てみると、その対照関係は筆致や形態だけにあるのではないことに気づく。二点ある二枚一組の作品は、大きい方も小さい方もどちらも、向かって左に置かれた作品は、画面の重心というか、目が強く惹き付けられる部分が画面上方にあり、向かって右の作品は、画面下方にある。あるいは、どちらも、向かって左の作品の方に、目ががっしりと惹き付けられる形態やマチエールがあるのに対し、向かって右側の作品は、目が留まるとっかかりが希薄で、あらゆる細部が流動的な感じに見える(そのせいなのか、左がポジで、右がネガという印象を受ける
)。このように言葉として並べると、左と右とが安易なコントラストをつくっているかのように聞こえてしまいかねないのだが、左から右、右から左への変換は言葉で整理するよりずっと複雑で、様々な要素が絡まっているので、決してコントラストには見えない(というか、そう見えちゃったらたんに作品として詰まらないものだ、ということになる)。この左右の画面を、対照として観るのではなく、それを描いている作家の(身体や脳内の)プロセスを想像しつつ、変換として捉えると、その途端に俄然、(現に今「見えている」色彩や筆触はと別の、見えない何かが見えてきて)ぐぐっと動いている感じが見えてくる。しかしそれでもなお疑問があるとすれば、それにしてもややプレゼンテーションの効果の方に引っ張られてしまっている部分が前に出てみえてしまう傾向があるように思う。というか、やはり、二枚並べて展示するというやり方が、プレゼンテーションの効果を呼び寄せてしまうのではないだろうか、とも思われる。じゃあ、どうすればいいんだ、と言われると、分からないのだけど。ただ、二枚並べる(180度)よりも、小品のように、間に角があった方(90度)が良いように思えた。
そのような二枚一組の作品と、三枚一組の作品とはあきらかに発想からして異なっているように見えた。三枚一組の作品では、それぞれのフレーム同士の関係は、(描かれることで事後的にたちあがる)内部にある形態や筆致、色彩によって関係づけられるというよりも、そのフレームの縦と横の長さの比によって(あらかじめ既に)関係づけられている。個々のキャンバスが、フレームの形態によって関係づけられていることと、そのキャンバスの内部にある形態や筆致、色彩(の組織のされ方)が、どう関連し、絡んでいるのかは、この作品を観ただけではぼくにはまだよく掴めていないのだが(フレームのサイズや縦横比の変化に従って、内部の形態や筆致も歪形しているとか?)、これらの作品でなされている行為(形態、筆触、色彩の組織化)は、二枚一組のものとはあきらかに違っていて、フレームの四つの辺の方から、フレームの内側(中心)へと向かってゆくような動きによって形作られているように感じられる(だからこれらの作品は、床に置かれたり、天井に掲げられたりして観られるのが相応しい感じだ)。フレームの形態そのものが強く感じられてしまうこと、あるいは、フレームに窮屈に押し込められているように感じられてしまうことは、黄金比というものそのものの強さだけではなく、おそらく、(意図的にそのようになされているのだと思われる)四辺から内側に攻めてゆくような感じと無関係ではないと思われた。